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<ミャンマーで今、何が?> Vol.104
2014.07.23

http://www.fis-net.co.jp/Myanmar

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■アウンサン物語

 ・01:7月19日はミャンマーの英雄たちの暗殺を悼む記念日

 ・02:当時の時代背景

 ・03:アウンサンの生い立ち

 ・04:伝説的な三十人の志士

 ・05:「ミャンマーで今、何が?」の視点

 ・06:三十人の志士の猛特訓

 ・07:祖国ビルマへの進軍

 ・08:日本軍とビルマ独立軍の不和

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01:7月19日はミャンマーの英雄たちの暗殺を悼む記念日

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今年の殉難者の日の原稿を書き終えて、念のために「ミャンマーで今、何が?」のバックナンバーをめくって見たら、期せずも昨年とほぼ同じような内容になっていた。新鮮味に乏しいので、その原稿はボツにして、どういう行事がこの日に行われたかは昨年のNo.54 20130724をご参照いただきたい。

67年前のこの日、ヤンゴンの下町中央にあるセクレタリアート・ビルディングで9名の閣僚たちが閣議中に銃で狙撃され、今はそれを悼む記念日としてミャンマーでは国民の祝日となっている。今週は、その閣議を主導していたミャンマーの英雄アウンサン将軍の秘話をお届けしたい。それも日本と深くかかわりをもつ切っ掛けとなった最初の部分の物語である。



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02:当時の時代背景

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今のマスコミは、簡単に大英帝国の植民地時代のひと言で済ますが、その圧政下に虐げられていたビルマの人々にとっては、最悪の奴隷に近い状態で、その上に英語の達者な中間管理職をインドから移住してきたヒンドゥー教と、そしてムガール帝国のイスラム教徒が独占していた。そして巧妙というか老獪な欧米は国境地帯の少数民族を手なずけて英語や欧州語による教育を施し日曜礼拝を通じて教育を施していった。そしてこれらの少数民族は、今度は下級管理職としてインド人の配下に付き、ビルマ人を支配する階級にもぐりこんでいった。

支配されるビルマ人にとっては屋上屋を重ねるように自分たちを抑制する支配階級が形成されていった。だから、政治行政組織はもとより、軍隊も、警察官も、学校教育体制も、何から何まで、ビルマ人はマジョリティの最下層階級に置かれたままだった。そこから上に這い上がろうなぞ、至難の業であった。そういう時代背景である。



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03:アウンサンの生い立ち

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だが、中には気骨のあるビルマ人もいた。その一人がアウンサン将軍の祖父だ。故郷ナッモウク村の郷士だったが、ゲリラ部隊を組織して反政府活動・反英活動を繰り返していた。政府側の拠点を急襲してはジャングルに逃げ込み、そしてまた警察官の詰め所を襲う。だが、最期は多勢に無勢で、全員が殺戮される。特にこの祖父は大英帝国の手によって首を落とされ、ナッモウク村を巡回して、村中の曝し首にされたという。

だから、アウンサン将軍、ひいてはスーチーさんには反英・反政府という考えが意識するしないにかかわらず組み込まれていたとするのは自然な見方だ。

そして、当時は支配階級の言語である英語ができなければ、いつまでも最下層に留まらざるを得ないという考えが支配的であった。だから、アウンサンの学生時代は基本的に英語との苦闘の時代でもある。アウンサンの魅力のひとつは彼が決してエリートの優秀な学生ではなく、努力によって自分の能力を高めていったことにあるような気がする。事実、その努力で、アウンサンの学生時代は頭角を現し、努力によって、学生運動の指導者に成り上がって行った。そしてビルマの独立という自由獲得に献身する。大英帝国の官憲の手で逮捕礼状が出され、アウンサンは地下に潜る。



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04:伝説的な三十人の志士

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アウンサンの選択肢は限られていた。ビルマ国内での独立闘争には限度があり、資金も、武器も、ゲリラ闘争訓練も、何一つ調達できない。唯一辿り着いたのが、密航による中国の福建省・アモイの国際共同租界である。だが、仲間が集めてくれた乏しい資金もすぐに底がついた。まさにそのとき、鈴木敬司大佐が大日本帝国陸軍から密命を帯びてアウンサンをその中心人物に据える企画がスタートしようとしていた。そしてアウンサンとラーミャインの二人は1940年11月(真珠湾攻撃の一年前)に東京に連れてこられた。最初はお互いに腹の探りあいであったが、アウンサンは鈴木大佐のあらゆるテストをパスし、その優れた資質は日本人の信頼を勝ち得た。日本側でも、陸海軍合同の南機関が正式に発足し、ビルマ国内で騒擾状態を起こす中心組織として若き三十人の志士たちが数回に別れて箱根の山に集合する。アウンサンもビルマ米輸入の摘み取りでパセインに入港した大同海運の“春天丸”の事務員として、偽の船員手帳を提示し、入歯で変装して上陸し、ヤンゴンの同志たちと極秘の企画を打ち合わせし、数人の同志を連れて、また再度、夜闇にまぎれてヤンゴン港を泳ぎわたり中流に停泊する錨の鎖をよじのぼり、船底に隠れた。



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05:「ミャンマーで今、何が?」の視点

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これら三十人の志士たちは、その後それぞれが、ビルマの軍部、中央政府で要職に就き、ビルマ建国の指導者となっていく。ただし、欧米のマスコミは、太平洋戦争の勝者にのみ正義があり、敗者を切り捨てる風潮があり、しかも若きジャーナリストはその延長戦上で教育を受け育てられている。少なくとも、この「ミャンマーで今、何が?」は、できるだけ正か悪かの単純な判断ではなく、事実をドキュメンタリー風に捉え、片一方に偏らないデータと材料を提供していきたい。




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06:三十人の志士の猛特訓

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アウンサンに引率された三十人の志士は箱根の山から、大日本帝国陸軍中野学校、台湾の玉里、中国の海南島、と場所を変えながら、通常2年以上かかる訓練を数ヶ月でこなしていく。しかも、祖国ビルマではビルマ人は軍務につくことを許されず、軍事訓練の経験はまったくない。したがって、箱根の山の上り下りで、隊列を組んだ歩行訓練からはじまり、基礎的な軍事訓練に入っていく。

太平洋戦争の緒戦である真珠湾攻撃は1941年12月8日。それに照準を合わせてビルマ戦線も開始される。時間的余裕はない。中でも日本の軍隊の規律の厳しさは熾烈であったと指摘されている。それに下士官の兵隊イビリもある。とりわけ、問答無用の軍隊の“ビンタ”は三十人の志士全員に驚愕の経験であったようである。三十人の志士は基本的に英語のできるインテリであった。ところが、日本の下士官で英語ができるのはほんの一握りもいたかどうか? いわゆるコミュニケーションが何一つ取れていないのである。

何ら理屈で説明せずに、“ビンタ”が飛んでくる。虫の居所が悪ければ、“往復ビンタ”だ。歴史に“もし”はないが、“もし”この“ビンタ”がなかったら、ビルマ国防軍の日本軍に対する反乱は生じなかったのではないだろうか。そしてビルマに限らず、連合国軍を追い払った初期段階で“もし”日本軍が東南アジア各国の独立を正式に認めていれば、太平洋戦線では違う展開が期待できたのではないだろうか?

もちろん物事はそれほど単純ではなく、世上言われる帝国陸軍と帝国海軍の確執とか、参謀本部の政治力争いなど、日本が敗戦に追い込まれる要素は複雑に絡まっていた。

話を三十人の志士に戻すと、あの“往復ビンタ”を含めた鉄拳制裁があったからこそ、まったくゼロの状態から、あの短期間で格好だけは軍隊組織に近いものが出来上がったという見方もある。



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07:祖国ビルマへの進軍

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1941年12月8日に日本の対英米戦争が宣言され、12月10日にタイのバンコクで南機関と三十人の志士を中核とするビルマ独立軍は正式に発足した。鈴木敬司大佐が主力部隊を率い、アウンサンは参謀総長として鈴木を補佐した。モーラメイン、ダウェイ、コータウン、それぞれを経由する3部隊に分けて、祖国ビルマへ進軍して行った。2,300名の兵力と300トンの装備を従えて、起伏の多い地形を踏破していったが、かなりの進軍スピードだったという。

ここで話は、若干ややこしくなるが、上記とは別に日本軍の本隊は別にある。鈴木もアウンサンも日本軍よりも先にラングーンに入城したかった。わずかばかりの戦闘で、英国戦線を後方、後方へと追いやっていった。こうして、3月1日にはペグー(現在のバゴー)、3月10日にはラングーン(現在のヤンゴン)に入った。



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08:日本軍とビルマ独立軍の不和

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だが、このあたりから日本軍とビルマ独立軍との間で不協和音が表面化し、南機関長の鈴木大佐自身がビルマの三十人の志士と日本軍の意思の疎通に苦しみ始める。
このあたりの経緯は次回に引継ぎたい。



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