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<ミャンマーで今、何が?> Vol.220
2017.6.26

http://www.fis-net.co.jp/Myanmar

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■ミャンマーは複雑なんです

 ・01: 30人の志士

 ・02: タンシュエの後継者選び

 ・03: トゥラ・シュエマン

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前回のメルマガは集中力が切れて、中途半端に終わった。

気合いを入れ直して、その続きといきたい。

当研究所の手法は常にモノゴトの原点を探し出し、ゼロからスタートすることにある。
ヤンゴン川の濁流を語るなら、カカボラジ山麓の雪解けの一滴からとなる。

理解できない問題だと、例えば岩波ジュニア新書に助けを求める。

プロがヤサシク説明してくれるから、ノー天気の頭でも何とか理解できる。

スーチーは日本の外務大臣にミャンマーは複雑なんですと語った。日本の外務大臣が、本当に理解したか大いに疑問だ。だから、スーチーはあえて念押ししたのでは? 
スーチーにマイクを突きつける国内外のマスコミも同様である。

特にミャンマーの国軍の話は複雑である。内弁慶の総理大臣であれば、テメーら、もう少し勉強してから出直せ、とどやしつけることだろう。だが、スーチーは、"複雑なんです"とエレガントな外交辞令で表現した。スーチーは京都大学の研究室で、父親アウンサン青年の足跡を追い求めた。そこには日本の南機関との秘められた友情と特別に深い絆が秘められていた。外務大臣ならば当然ご存知でしょうね!と念押ししたと当研究所は解釈する。


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01: 30人の志士

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元々のビルマ国軍は伝説的な「30人の志士」が主要構成要員であった。

陸軍中野学校で通常2年かかる軍事謀略の厳しい訓練を、中国海南島三亜ジャングル奥地で、わずか二ヶ月で修得した。それはそれは熾烈な訓練であった。日中は実弾訓練、夜間は座学・図上訓練が、早朝から深夜まで続いた。もちろん月月火水木金金の休日抜きである。大英帝国から独立するという悲願達成を、指導する日本人教官も、受講するミャンマーの若者たちも、寝食を共にして真剣に目指した。

このエピソードを今の若者たちに披露すると、ダラけた座り方をしていたミャンマーの若者が背筋をピンとするから不思議だ。海外から持ち込んだマニュアルで教えてもダメだ。だが、アウンサンの若き日の秘話はミャンマーの若者を鼓舞する。それができるのはアウンサンの若き日をゼロから徹底的に学習したスーチーだけだ。

二世大統領・三世首相は、この世にごまんと居る。だが、スーチーのカリスマは筋金入りである。しかも、世界の首脳から偏見を持たずに歓迎される。ドナルド・トランプやテレサ・メイなど、スーチーから学びべきだ。近隣諸国と摩擦を起こさずにやっていける一国の指導者など、今時そうザラにはいない。日本の歴代指導者、外交官はどうだったのだろう。スーチーに援助してやるという高慢な外交官・ビジネスマンは幾人も見てきた。今、時代は大きく変化しつつある。スーチーに教えを乞う時代が直にやってくる。父親が見届けられなかった大仕事にスーチーはチャレンジしている。

話を戻そう。
アラビアのロレンスのような鈴木敬司大佐の奇策でイギリス軍をビルマから追い払うと、日本軍の東条英機首相および大本営はアジア諸国に約束していたビルマの独立を反故にした。裏切られたのはビルマだけではない。インドも、インドネシアも、フィリピンも、ほとんどのアジア諸国がそうであった。

大日本帝国は大英帝国に代わり君臨し、ビルマを植民地にした。そして、バーモー大統領を元首とする形式だけの傀儡政権で誤魔化した。怒り狂ったのはビルマ侵略の奇策を成功させた南機関機関長の鈴木敬司大佐である。鈴木は烈火のごとくに抗議し軍部に食い下がった。

だが、日本軍大本営は愚かにも、英国と同じ植民地主義者に成り下がった。その結果がインパールの白骨街道で、沖縄の悲劇であり、広島・長崎の人類に対する犯罪であり、日本民族絶滅危機の8月15日である。終戦ではない。ワレワレの両親・祖父母が味わったあの惨めな"敗戦"である。

サムライ鈴木敬司大佐、そして同志たちは、無念の涙を飲んだ。
大きく成長したビルマ独立軍の同志たちに別れを告げると、鈴木機関長はビルマを去った。その時をもって南謀略機関は自然消滅した。

アウンサン将軍は軍事顧問などで残った元南機関の教官たちには特別の配慮を施し、遠慮することなく日本軍本隊には反旗を翻した。そして英国軍の総大将であるマウントバッテン卿と手を握った。

ネットの一部でアウンサンは日本軍を裏切ったとの書生っぽい非難を見かけるが、事実は全く違う。裏切ったのは日本軍である。
英国の頑強な保守主義者で植民地主義者であったウィンストン・チャーチルまでが"アウンサンは裏切り者だ、反乱軍のリーダーだ!"と大英帝国議会で強弁したが、とんでもない、ビルマを奴隷の地位にまで貶めたのは大英帝国の植民地主義そのものである。この通り、植民地帝国とは日英ともに実に身勝手な戦争指導者であった。

アウンサンとビルマ軍の目指した究極の目的は、日本軍を支援することでも、英国連盟軍を援助することでも無い。ただ純粋に、祖国ビルマの独立である。その難問協定をアウンサン暫定首相はロンドンに飛び解決し、当時のアトリー首相から勝ち取った。

終戦の年1945年の総選挙において、第二次世界大戦の大英雄であるチャーチルは、労働党党首アトリーにまさかの敗北を喫した。耐乏生活を強いられた英国の庶民は、戦争はもうコリゴリと平和な未来を選んだのだ。その意味でアウンサンは幸運だった。ツキも実力の内である。

一年以内に独立を保証するアウンサン=アトリー協定ではあったが、この労働党首相も老獪なアングロサクソンのDNAが流れていた。アッパービルマ(すなわち北部山岳民族)との国内統一和平を独立許可の条件とする往生際の悪い協定締結である。英国が置き土産としたお得意のDivide(分割)を、自分たちで修復してみろと老獪な難問を投げかけたのである。だが、ロンドンから帰国するとアウンサン将軍は紛糾する国内統一を、辛抱強く交渉した。

少数民族の藩主(マハラジャ)たちを南シャン州に呼び集め、将軍はそれを成し遂げた。それが「1947年1月12日のパンロン協定」である。それからさらに半年後の1947年7月19日に東西南北研究所近くの旧総督府でアウンサンは政敵の私兵軍団に謀殺された。その背後の真犯人は大英帝国であるというスパイ物語が英国のBBCから放映されている。スーチーも英国の歴代首相も、その事実を当然ながら知っている。この暗殺から、さらに半年後の1948年1月4日、この旧総督府で大英帝国のユニオンジャックが降ろされ、国民待望のビルマ国旗が高々と翻った。

だが、ビルマ独立を勝ち取ったビルマの英雄アウンサンはこの世にいない。リーダーを失ったビルマ連邦は進路を誤りカオス状態に陥り、軍事政権が誕生し、20世紀のパンロン協定は紙くずとなった。裏切られた少数民族の武装グループは中央政府を信じず先鋭化して、国境地帯のジャングルに逃げ込んだ。戦闘集団の男子のみならず、老人・婦女子・子供たちを引き連れての民族ごとの大疎開である。繰り返すが、ミャンマーには135の少数民族が存在する。日本主要都市の大空襲で逃げ惑った家族・老人・婦女子たちに思いを馳せて欲しい。ミャンマーにはそれらの人たちが今現在も居るということである。

いま、スーチーが心血を注ぐのが、軍事政権によって粉々に粉砕された、21世紀のパンロン協定再構築である。これを実現できたら、スーチーにノーベル特別賞を授与すべきだと当研究所は提案したい。アメリカの歴代大統領(ジミー・カーター、ビル・クリントンなど)はイスラエルとパレスティナの平和協定を仲介したとして、何度もノーベル平和賞を乱発させた。だが、その協定は破られ平和はまだ実現されていない。

スーチーには政治の経験がないとか、インフラや道路がお粗末だとか、車が渋滞して経済が滞るとか、経済面の効果しかマスコミは問題にしない。彼らはピントがずれているのではないだろうか? では質問するが、日本でスクラップとなった中古車がミャンマーの道路を覆い尽くしているのである。見方を変えれば、日本の産業廃棄物のゴミ捨て場となっている。パソコンを始めとして、これで商売している人たちが大勢いる。これに手を貸す日本人もいる。支援国の最高責任者はこの現実を見ているのだろうか? 国家の品格とは何なのだろう? 教えて欲しい。

軍事政権時代、例えば道路・橋梁・空港・ビルの工事にしても、工事費あるいは材料費のピンハネは上から順番に削られていく。タールが、あるいは、コンクリが順繰りにピンハネされて他に転売される。従って、最後はカスカスの道路しか完成しない。次の雨季には道路は穴ボコだらけとなる。軍事政権はこれを繰り返してきた。新築ホテルでも同様である。立派に見える大理石の柱でも、中は空洞である。コンクリに使用した砂利・石ころが簡単に剥離して、深夜にコロコロと音を立てて落下していく。

その事実を承知しているのか、知らないふりをしているのか、海外の業者が政府の案件を落札していく。それで、ワガ政府はミャンマーには莫大な資金援助をしていると豪語する。そして問題が発覚すると何も知らない新政権のせいにする。

繰り返すが、2016年4月に発足したばかりの新政権に対してである。これは欧米のマスコミも同罪である。そしてミャンマーに対する特に米国の制裁は、解除されてしまった。アメリカの尻馬に乗るマスコミは、もう障害はなくなったと書き立てる。マスコミを信じるビジネスマンは、恥も外聞も捨て、最後に残された経済フロンティアへとなだれ込んでくる。

真に偏らない全方位外交を目指すスーチーは、母親直伝のプロの外交官である。海外の要人に「ミャンマーは複雑なんです」と語る。ヤンゴンに大使館・領事館という外交機関を構える大国であれば、スーチーの語る真意、そして歴史ぐらいは自国の大使館から事前にレクチャーを受けて訪問すべきではないだろうか? 

今回は、佐藤優著「悪魔の勉強術」、池上彰&佐藤優共著「僕らが毎日やっている 最強の読み方」を日本から持参した。そして、手元にある立花隆著「滅びゆく国家」、畠山清行著「続秘録 陸軍中野学校」、日下部一郎著「陸軍中野学校実録」、佐藤優著「自壊する帝国」なども読み直してみた。

そこで、考えたのだが、インヤー湖畔にあるスーチー私邸直ぐ近くのアメリカ大使館、ストランド通りのイギリス大使館、それから中国大使館、ロシア大使館などの情報収集能力は、層が厚いというか、ずば抜けて凄いということである。そしてスーチー、その他ミャンマーの要人たちとは各階層で太いパイプを持ち、情報をきちんと分析している。これらは日刊英字紙GNLM紙を丹念に見ていれば、その凄さが見えてくる。当然のことながら、本国政府の指示で彼らは働いている。その積み重ねによって、国力は磨き上げられる。

そうだ、今回のメルマガのテーマは<複雑なミャンマー国軍>であった。
忘れたわけではないが、また寄り道してしまった。



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02: タンシュエの後継者選び

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突然だが、話を2010年8月27日にワープしたい。
この日を境に軍事政権のNo.1タンシュエとNo.2マウンエイが軍籍を離れ、完全に引退すると噂が流れた。繰り返すが、この国で説明責任を標榜して"透明性"を実行するようにさせたのはスーチーが仕掛人である。だから、当時の情報はすべてウワサだった。

独裁者タンシュエは後継者とか、側近の副官をも信用しない。
だから、タンシュエはNo.2のマウンエイを道連れにした。それだけではない、同時にトップ将官6名も辞めさせた。タンシュエは彼らを恐れたのである。自分が専横し堪能してきた独裁者の地位を、この道連れ将軍たちが真似し、力をつけるのを極端に恐れた。引き継ぐならば、ずっと若い、引退後の自分と家族に絶対服従で弓を引かない従順な部下を念入りに選別した。チェスの駒を動かすようにタンシュエが自分の指で自在にピックアップしたとNYタイムズは表現した。

今、和田竜著「村上海賊の娘」(4冊)を読んでいるが、洋の東西を問わず、この後継者選びには似たような苦労があるようだ。目が曇ってくると、優秀な生え抜きを信用せず、バカ息子に引き継いで、先代から続く事業を潰してしまう。

では、タンシュエは誰をピックアップしたのか?
それがテインセインである。彼はタンシュエより12歳若い。
決して野心を抱かず、タンシュエに忠実で、3人の娘も有力者に嫁がせたりせず、夫人も派手好みではない。地味で生真面目な性格である。だから、タンシュエは自分の指でまずは首相にピックアップし、様子を見た上で、それから大統領に据えた。タンシュエはガサツなようで慎重である。

当研究所は、ここで告白したい。大きな過ちを犯していたことを、あるいは読み切れなかったことを。
それは、NYタイムズ、Wポスト、WSジャーナル、BBCなどの情報を鵜呑みにして信じたことにある。バックナンバーを見て貰えば分かるが、最初の頃テインセインは偉大な改革者であると褒めちぎった。そして、ミャンマーは変わるとお伝えした。

テインセインが大統領となり、スーチーを釈放し、スーチーの政党NLDを公認し、メディアに対する規制緩和を実行し、政治犯を大量に釈放し、2012年9月NYにおける国連総会ではミャンマーは改革を遂行中で決して後戻りはしないと大見得を切った。中国が中国政府のために建設中の巨大なミッゾンダムを中止させるなど、軍事政権時代にはなかった変革をもたらし、彼の強力なリーダーシップで、ミャンマーの国民のために民主化を持ち込んだと外電同様に錯覚した。強力なリーダーシップどころか、タンシュエの手のひらで泳がされていたにすぎない。7

スーチーは、テインセイン新大統領の民主化改革を本物かどうか注意深く見守りたいと、ヒラリーにも欧米の外交団にも語っていた。そこで、テインセインはスーチーを大統領府に招待し、一時間を超える秘密会談を持った。そして最後はアウンサン将軍の肖像写真の下で、スーチーとテインセインが握手する演技までした。タンシュエは、実の父娘でありながら、アウンサン将軍とスーチーのイメージが結びつくのを極度に嫌っていた。カリスマのシナジー効果を恐れたのだ。その直後に、スーチーは新大統領は本当に誠実な方ですと、記者団に語った。これで、外電も、このメルマガもすっかり騙されてしまった。

ある意味では、スーチーも、米国政権も騙された。これは米国政府の経済制裁を解除させるために、軍事政権が必死で、しかも入念に振付けし、演技させたシナリオである。軍事政権にとっては、大きな賭けであった。

だが、スーチーは2014年11月、改革のスピードは止まったと公に警告した。

そして、2015年11月8日の総選挙で政権党USDPがスーチー率いる最大野党のNLDに惨敗し大統領府を去ると、翌2016年4月1日テインセインはピンウールインの僧院で僧侶に叙す儀式を受けたとのウワサがネット上で流れた。この事実は確認していないが、英米人からは武闘派ではなくBookish(クソ真面目に本ばかり読むタイプ)と揶揄されるテインセインらしいウワサである。お役御免になったテインセインが、東西南北研究所の編集会議室では東条英機首相・阿南陸軍大臣と重なった。

まったく次元の異なる話で噴飯ものとお叱りを受けるかもしれないが、そして時代背景もまったく異なるが、なぜか日本の敗戦をめぐる"御前会議の空気"に似ていると思った。ミャンマー国軍の複雑さを知るには、タンシュエを"雲上人"と仮定する。そして、タンシュエの周りには人数も不明な"忠実で優秀な秘密の参謀たち"が控えている。この参謀たちは御庭番のように絶対に表には出ない。だが、大統領の選定など重要な秘密会議には必ず参画する。その決定はタンシュエの発言、行動のみに現れる。

念のために、角田房子著「一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾」、寺崎英成記「昭和天皇 独白録」、色川大吉著「ある昭和史 自分史の試み」、小林よしのり著「天皇論」などを参照してみた。

"忠実で優秀な秘密の参謀たち"が狙うのは、国体を民主主義へ移行する、ミャンマーを国際社会へ参加させる、"雲上人"引退後の身体の安全保障の三つである。この辺りが、スーチーとテインセインおよびタンシュエとの個別の秘密会談でそれぞれに話し合われ、口が裂けても言えないが、政権移譲の条件としてスーチーが飲み確約したのではなかろうか。ポツダム宣言受諾の条件が国体の維持であった。すなわちタンシュエの身体の安全保障。ルーマニアの独裁者チャウシェスクのケースを恐れた。

"この忠実で優秀な秘密の参謀たち"は中国では明の時代に、そして日本では1947年に廃止された「枢密院」という君主の最高諮問機関に似ているが、その名称も実態も存在そのものが全く不明だが、存在するとみなした方が、すべての事件で合理的な説明ができる。

このメルマガのバックナンバーで拾っていただければ納得いただけると思うが、ミャンマーの民主化は基本的には"忠実で優秀な秘密の参謀たち"の描いたシナリオの範囲内で演じられているといえる。その範囲内はフェアウェイだが、それを踏み外すとOBとなり、国軍がクーデターを起こしても良いと2008年憲法には明記されている。

だが、マスコミに煽られて民主化移行へのスピードが速すぎると、軍部が茶々を入れるのは、そこに根拠がありそうである。
一方、スーチーは2014年11月、改革のスピードが停止したとテインセインに警告を発した。そしてそれを公表した。



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03: トゥラ・シュエマン

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まず最初に紹介したいのがこの男。
1947年の生まれでテインセイン大統領より2歳年少だが、軍政権においてはタンシュエ、マウンエイに次ぐNo.3の地位。ちなみにテインセインはNo.4。
肩書きに"トゥラ"の称号がつくが、これは1988年、少数民族の武装勢力であったカレン民族同盟との戦闘で武勲をたて受賞した称号でこれは本人の名前ではない。

2005年陸海空三軍の統合参謀長となり、タンシュエの右腕と言われた。
そして例のシナリオに則り2010年8月に軍籍を離脱し、軍服を脱いだ。それから2010年の総選挙でシナリオ通りに当選し、伝統的な民族衣装に着替えた。そこで2011年1月31日にミャンマー連邦議会の下院議長に就任。というよりも、テインセインの大統領職と同じく、タンシュエの一存で決められた。

テインセインが大統領に就任し、次々に改革案を打ち出し実行していくと、あの苦虫を噛み潰したようなBookishな大統領の人気がウナギのぼりとなった。それも国内だけでなく、海外ではもっと凄い。ネイピードを訪れる海外の要人がテインセインを褒めちぎる。

武闘派のシュエマンとしては面白くない。いつの頃からか、"オレは下院議長よりも大統領になりたかったんだ"と吠えるようになった。海外の主要メディアにもそう語っている。テインセインはそのような欲望は一度も口にしたことがない。彼は雲上人の真面目で忠実な部下である。だが、シュエマンとしては、オレはNo.3でテインセインよりも上位で、雲上人の右腕なんだゾ、という驕りがある。アブナイ!アブナイ!ここでシュエマンの人事考課はいきなり危険信号が灯った。

最初に述べたように、この頃からタンシュエがシュエマンを危険視するようになった。その雲上人による処分が2015年8月12日の政変である。詳しくはメルマガのバックナンバーVol.158(2015.08.19)を参照いただきたい。

要点を述べると:
2015年8月12日午前シュエマンは通常通りにUSDPの定例会に出席。同日深夜10:30ネイピードにあるUSDPの豪壮な本部ビルが警察当局に急襲された。翌早朝13日午前02:30二十台以上の乗用車が同ビル敷地から走り去った。13日朝USDPが召集され、午後になって、USDP党首と下院議長の掛け持ちは超多忙でシュエマンを党首の職から除外すると公式発表がなされた。党首剥奪から24時間以内に、シュエマンの個人所有で、USDPの御用新聞とみなされた「日刊ユニオン・デイリー」と「週刊ザ・リーダー」の2紙が無期限に発行停止となった。

この大事件および処分は国会閉会中のタイミングで行われ、8月18日(火)から国会は再開された。

シュエマンの党首解任と同時にテインセインがその空席に再び指名されたが、細則で大統領と党首の兼務は認められず、テイウー副党首がUSDP党首代行となった。53名から構成される中央執行委員会の大幅入れ替えも同13日中に行われ、シュエマンに忠実なメンバーは片っ端から排除され、昔の軍人エリートが交代で投入されたとなっている。

ただし、それらの辞任は大統領に認められたとなっているので、キンニュン解任劇のような刑の執行はなく、シュエマンはその後も下院議長を続けた。テインセインは無口で何を考えているか読めないが、シュエマンの発言を何度か読み返すと腹の底が見えてしまう。タンシュエもそれを傲慢と見て、手を打ったのだろう。

テインセインの国内外での人気が高まるにつけ、シュエマンはテインセイン以上の民主化改革派になろうとした。そこで必要以上にスーチーに接近し、スーチーとは同志のような付き合いをした。しかも、スーチーは2008年憲法上、絶対に大統領にはなれない。そこで、自分が大統領に君臨して、スーチーには外務大臣でも、否否それでは失礼だ、もっと上位の首相職を新設して、お望みの民主化政治を自由にやってもらう。こんな発言を海外の報道関係にも臆面もなく語るようになった。

スーチーとしては、軍人の位でNo.3を味方につければ、シュエマンが軍部を抑えて憲法改正でも有利に働くと読んだはずである。だから、スーチーとシュエマンは急接近していった。この辺りもタンシュエの人事考課担当課長は危険と見たのだろう。それら全てが2015年8月12日の深夜政変劇の原因と東西南北研究所は邪推する。

この事件翌日、スーチーは予定されていたスケジュールをすべてキャンセルした。この2015年という年は、年末の11月8日にNLD待望の総選挙が予定されており、手持ち時間は3ヶ月を切っている。ということは、タンシュエの焦り、与党USDPの焦燥感が、作り出した事件と言える。

政治の世界は一寸先は闇とはよく言ったものだ。
シュエマンは次の総選挙に党の公認が受けられずに、無所属で出馬した。そして落選した。議員バッジがなければタダの人である。失意の人であった。
一方スーチーは今度こそはと全国民の期待を担って、雪崩現象の大勝利となった。

最終回でスーチーとシュエマンの立場が大逆転したのである。
スーチーの出自はサラブレッドである。だが、苦労人のスーチーは敗者の痛みがよく分かる。スーチーは法律顧問に十分に調査させ、2016年の新政権発足時から、大統領権限でミャンマー連邦議会下院法務諮問委員会の委員長にシュエマンを指名した。海外の要人はスキップしないでシュエマンの執務室を必ず訪れる。多分、意気に感じたのだろう。シュエマンは無報酬での就任を宣言した。シュエマンに限らないが、このレベルの軍のトップは信じられないほどの財産を溜め込んでいるのが、庶民の一般常識である。

この軍人超々エリートに対しての気配りは、田中カクエイ並みである。同じ女性で同年齢とはいえ、田中マキコではない。
もちろんスーチーには軍部の強硬派に睨みを利かしてもらう意図もあろうが、その職務で憲法改正の実現に努力してもらうという計算もありそうだ。

今回は、スーチーが自分の陣営に取り込もうとした国軍幹部トップ三名をご紹介しようと思ったが、最初のシュエマンだけでくたびれてしまった。後の重要な二名は次回のメルマガにしたい。
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ところでSSS(失神シンドローム)以降、多くの方々からお見舞いメールをいただきました。個別にはお礼状出してませんが、手抜きをして、このメルマガ誌上で御礼申し上げます。

BKさん: 山男の先輩からは膝の手術後快調で20歳若返った。古くなった部品も手入れさえすれば、まだまだ使用可能。今年は富士山、来年はネパール・アンナプルナ内院までのトレッキングと、元気いっぱいのエールをいただいた。

MKさん: 国軍関係の他人の窺い知れない関連情報をいただいた。ヤンゴン在とのことで、機会があればお会いしたい。

NJさん: 脳梗塞で倒れたご経験から、次回の精密検査に備えての貴重なアドバイスを詳細にいただいた。

KKさん: お見舞いに加えて、メルマガへの応援歌もいただいた。

NTさん: 聖路加に行ったことがないので行ってみたい。お手伝いすることあれば・・とご親切さに感謝。ですが紙オムツの交換など専門技術が必要で手伝いは不要です。死ぬも生きるも、すべて白衣の天使にオマカセです。

皆さま、本当にありがとうございます。


東西南北研究所







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