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<ミャンマーで今、何が?> Vol.261
2018.7.13

http://www.fis-net.co.jp/Myanmar

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■シュエマン著「レディと私、そして国家問題」その4

 ・10: シュエマン一家の悲劇

 ・11: 今、ミャンマーから世界が見える

 ・12: 策士スーチーの戦術、そして戦略

 ・13: 緊急連絡!!!

 ・公式ツイッター(@magmyanmar1)


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10: シュエマン一家の悲劇

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権力の絶頂から、奈落の底に蹴落とされた男がいる。バンジージャンプの怖さを味わったシュエマンのドラマを、今回こそ本当に、お届けしたい。

2015年8月12日真夜中のクーデターで、シュエマンはUSDP党首の座を剥奪され、党員資格も失った。国会下院議長の地位はなんとか保全され、首の皮一枚で生き延びた。その命運も総選挙の11月8日(日)に燃え尽きた。

盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず。ただ、春の夜の夢のごとし。猛けき者もついには滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。平家物語をミャンマーで演じたのがシュエマンであった。

クーデター前に、自分の生誕地バゴー地区ピュー町区からの立候補資格をシュエマンは取得している。お手盛りである。与党USDPの党首であれば、当時は何でも出来た。幸運にもクーデター後も、選挙資格だけは剥奪されなかった。

公務多忙で訪れたことのない生まれ故郷へ、選挙運動のためシュエマンは戻った。地元の村々を隅々まですべて廻った。同郷の勇士を農民たちは温かく迎えた。勝利の匂いをシュエマンは感じた。

ここで余談に入る。ミャンマーの人たちは実に愛想がいい。本人の前ではネガティブな答えは絶対に口にしない。だから、明日会社を休むつもりでも、最後まで言い出せず、皆に同調して出社すると答える。翌朝彼の姿はない。そこであわてて怒り出す日本人のマネジャーは多数いる。日本人もその気がないのに、検討させてもらいますと持ち帰って、無しのつぶてはよくある。どっちもどっちだ。シェエマンですら、地元民の心を読みきれなかった。海外で事業を起こすなら、地元民の性質を研究する文化人類学は必須科目だ。雇用したから仲間だと錯覚するマネージャーが悪い。

余談を追加する。ミャンマーに入ってきた欧米人も同様だ。ミャンマーに駐在するのは国連だけで12機関以上ある。大使館・領事館の数も、民主化に伴い、年毎に増えている。難関の面接を突破して採用されるミャンマー人の給与は、間違いなく高給だ。一度採用されたら、絶対に失いたくない職業だ。そこでどういう現象が起こるか?上司である本国人(外国人)の嗜好を見抜いて、反対意見など絶対に口にしない。それが、雇用安泰の秘訣である。

どういうことかと言うと、例えば報道関係としよう。外国人の上司は人権問題に関心ありと見抜く、ラカイン州の実態には関係なく、婦女子レイプが、児童虐待が、と彼の気を引く情報だけを集める。ミャンマー人の処世術によれば、好条件の職場を奪われない防衛策である。外国人上司は社内研修といいながら、イエスマンのみを育てて満足に浸る。
スーチーは部分だけに固執しないで、全体も見てほしい。バランスの取れた判断をしろと常に強調している。今、世界は相手の弱点に集中して一点攻撃する方向に走っている。政治の世界もそうだし、経済の世界もそうだ。その中でスーチーはバランス感覚のある卓越した指導者である。

話を戻そう。

投票が終了した8日午後8時、結果は良好と聞かされた。勝利は間違いなし。シュエマンはこの時点でも勝利を確信していたと告白している。選挙運動に片時も離れず、協力してくれた妻がポツリと言った。「ところで、レディはどう?是非とも勝って欲しいわネ」と。「情報では、順調に票を重ねている。勝利は間違いないヨ」と私は答えた。

午後10以降、自分の得票が先細りになり始めた。刻々入ってくる報告では、一部の投票所では負けているという。様子を見に行ったスタッフの報告も芳しくない。スタッフからの報告がこなくなる。結果が悪いのだろう。

妻も結果をさとった。「誰も来なくなった」と言い、電気を消し、神棚を設えた仏檀の部屋に入っていった。暫くすると、妻のすすり泣きが聞こえてくる。「可哀想にアペイ(=Aphay子供の父親を意味し、夫へ語りかける言葉)は負けてしまった。努力は実らなかった。なかには不誠実なひとたちもいた・・」 声の掛けようがなかった。「おいで!それは“問題”ではない!」と慰め、寝室へ誘った。

落選したとすれば、“問題”はいくつもある。私も心の中で泣いた。自分の兄弟姉妹たちも泣いていた。高血圧症で倒れた者も中にはいた・・と後になって知った。

寝室で妻が最初にベッドに横になり、私を認めると、ピストルを取り出し、いつものように枕の下に置いた。そして言った。「これも必要なくなったわネ。選挙に負けたのだから。アナタの落選を願った人たちは、さぞ喜んだことでしょう。もう、身の危険を心配する必要はないわ!」 妻の言う通りだった。だが、私はいつも通り、最悪の事態に備え、ピストルはそのままにしておいた。

シュエマンは「レディと私、そして国家問題」に、上記のエピソードを書いた。東西南北研究所が、「ミャンマーの今」を、日本の明治維新前後に譬える意味がお分かりいただけるだろうか。この場面は明治・大正を通り越して、1932年(昭和7年)5月15日、犬養毅首相が暗殺された五・一五事件をなぜか髣髴させる。今時、ピストルを枕に寝る日本の首脳など一人もいない。それだけに、ミャンマーを見誤る気がする、日本の政治家・報道機関・善良な愚民のみなさんは、時代錯誤のミャンマー・ウォッチングをしている。逆説めいた言い方をするが、激動のミャンマーは今、怒涛の明治維新を体験し、1932年の五・一五をそして1936年の二・二六を正に経験している。このエピソードをそう分析して、解釈したい。



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11: 今、ミャンマーから世界が見える

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話は現在に戻る。

現在、スーチーが真剣に取り組んでいる最優先課題の国内平和交渉も、反対武装勢力は滅多にテインセイン前政権を信用していなかった。軍事政権から何度も煮え湯を飲まされたからだ。だから、簡単には武器を捨てない。実際には、スーチーは、最優先課題をいくつも抱え、しかも同時に進行させている。そうやって、後に続くものを、育てている。凄い馬力だ。

ラカイン問題も同様で、スーチーが語るとおり、お互いに信頼を作り上げる原点からスタートしなければ何事も始まらない。反対武装勢力にすれば、敵の陣地のど真ん中ネイピードで話し合いなど、もっての外である。だから、最初はお互いに第三国のタイのチェンライだったり、雲南省の昆明とかで交渉を重ねた。二十いくつもある反対武装勢力を一組一組ネイピードでの国内平和交渉に引っ張り出すのは、至難の業であった。スーチーの苦労がどれほどか、ご理解いただけるだろうか。独占インタビューアーは、時間が長引いているが・・と言った。日本で流行の気配りはどこに逝ったのだろう。

米国・北朝鮮トップ会談に場所を提供したシンガポール政府同様に、中国の外交カードは秘策を練り、その外交戦略はしたたかだ。ミャンマーの国内紛争問題まで人民解放軍が仲介し、お隣の雲南省に会談場所まで用意してくれる。そのしたたかな外交戦略に、堂々と向き合ってきたのがスーチーである。決して卑屈な外交ではない。スーチーは中国に取り込まれたと証拠のない報道も見かける。そのスーチーに不十分な事前調査だけで独占インタビューを挑む報道陣もいる。その報道姿勢に本気で心配してしまった。例えばだが、ミャンマー通の日本政府の特使・笹川陽平などから、たっぷりと情報を仕入れて、スーチーに対面する。そうすればBBCに劣らぬ日本独自の切込みでインタビューが面白くなる。スミマセン、またまた迷路に紛れ込んだ。

話を戻す。

ばらばらだった家族が集まってきた。だがもう、シュエマンを慰める者はいない。妻に急かされて、翌朝午前5:30にスーチーに電話した。そして、お互いの状況を話し合った。私の選挙区で当選したNLDのウ・タンニュンに電話して祝福するつもりだ、とスーチーに告げた。

スーチーは「選挙に負けたなどと言ったら、絶対ダメよ!今までどおり、私と密に連絡を取って!正式な選挙結果は発表されていないのに、自分の入手した情報に基づき、勝者を祝福する下院議長殿の潔い行為を、私は尊敬します」と言ってくれた。そして、午前6:30にタンニュン氏に電話をした。突然の電話に同氏は驚き、シュエマンに対して真に申し分けないと語り、今回の当選は自分の能力を遥かに超えたところにあり、複雑な要因がいくつも重なった結果だと語った。スーチーが言うとおり、ミャンマーの人たちは、ミャンマーがいかに複雑か理解している。それが分からぬのは外部の人たちだけだ。ミャンマーに駐在する外交団でも分かっているのは一部だ。

そこで、選挙区のため、そして国家のために、全力を尽くそう、とお互いに話し合った。そしてそれから、シュエマンはソーシャル・メディアを通じて自分の心境、信念を流すようにした。シュエマンもバンジージャンプの撥ねっ返りで、SNSを使用するようになった。シュエマン自身もアップ&ダウンを経験しながら、未来に向かい自己改革を始めた。



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12: 策士スーチーの戦術、そして戦略

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そして11月13日、スーチーからの書簡を受け取った。11月10日付け自筆署名のレターである。シュエマンとの会談を求める内容だ。

「11月8日に実施された総選挙のマニフェストに書かれた、国民の意思を平和裏に実施することは、この国の現状にとって、そして国民の平和な生活にとって絶対に必要なことだ。この観点から、国内全土における和解を目指して、尊敬する下院議長殿にお会いして、ディスカッション(*深い意味が込められているので和訳しない)を行いたい。来週お会いしたいが、議長閣下のご都合の良い日にち・時間を教えてください」となっていた。私は11月19日午前9:00にお会いしたいと返事した。

同様の手紙はテインセイン大統領、そして国防軍の最高司令官ミンアウンラインにも即日送付されている。選挙後二日目に、このように迅速で、重要な会談を一対一で三巨頭に申し入れるなど、政治の本物のプロしか出来ない。現在の世界の指導者を見回してみても、これほどの凄腕はまずいない。先ずは勝利の美酒に酔っているか、二日酔いに潰れているかである。プーチンはギンギンのウォッカで鍛えているから、彼は除外しよう。

シュエマンも行動は早いし、その戦術は巧妙だ。

11月10日(総選挙から二日目)、シュエマンは妻を帯同してテインセイン大統領夫妻と会った。そして大統領に語った。「私は選挙に敗れた。USDPも敗れたと聞く。私は悲しい。スーチーが手紙を寄越し、私に会いたいと言ってきた。私は同意した。スーチーはアナタとの会見も望んでいるそうだ。どう思われますか、大統領殿」 大統領は「自分も会うが、それは一ヶ月以降の話だ」と、答えた。敗戦処理をUSDPの幹部会に諮るか?元老の指示を受ける? その時間稼ぎが一ヶ月以降というアヤフヤな返事になったのだろう。この後の政治日程でいけば、テイン政権は翌2016年3月31日までの寿命。そして4月からスーチー新政権が発足する。

この場面では、スーチーNLD党首、テインセイン大統領、シュエマン下院議長の三巨頭が登場している。それぞれの思惑が行間に滲み出ている。スーチーがアクションを起こす。総選挙からわずかに二日後である。その行動は早い。シュエマンも行動は早い。手紙そのものは受信していないが、スーチーとは電話連絡が密だ。その二日後の11月10日に、シュエマンはテインセインに会い、探りを入れている。しかも、妻を帯同して一対一を避け、大統領夫妻と面談した。ミャンマー人の繊細さが目に見えてくる。

もうひとつ重大なことを見逃してはいけない。大統領はスーチーとの会見を受けるが、なんと一ヶ月後にしか会わないという。ここにテインセインのキャパシティ、度胸のなさを読み取るべきだ。白状すると、東西南北研究所でも事件前後、どうしても腑に落ちないことがいくつかあった。だが、シュエマンの告白録で、今はそれらがストーンと納得できる。

スーチーのターゲットはテインセイン、ミンアウンラインだけではない。その後ろ盾に巨魁が潜んでいる。そのエピソードは日を改めよう。



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13: 緊急連絡!!!

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『我が師匠である向後元彦さん!東京のマングローブ仲間に至急連絡を取ってください!』このメルマガVol.261号はプロバイダ殿にお願いして7月13日(金)のアップロードを予定している。

佐賀県のTK氏がすぐ近くのゲストハウスに宿をとった。そして東西南北研究所の事務所を慌しく訪ねてくれた。「U OHN先生が今朝早く亡くなられた」との訃報を持って。7月11日午前中のことであった。茫然とドア口で立ち話をしながら、巨星墜つの思いが頭をよぎった。

機転の利くTK氏の手配で、早い夕方お通夜の席にご自宅に連れて行ってもらった。

未亡人が黒装束で寂しそうに椅子に腰掛けておられた。成人された二人のご子息、二人のご息女は弔問客の接待を甲斐甲斐しくこなされていた。ご遺体はご自宅に戻らず、病院から直行で葬儀場Ywewayのクーリング・チェンバーに安置されたそうだ。ここは熱帯の地。近代化で便利にはなったとはいうものの、ご自宅で終夜ご遺体を見守る風習が消えていく。小さな身体の未亡人がさらに寂しそうに見えた。だが、慰めの言葉をお掛けすると、目をカッと見開き、矍鑠とした態度をとられた。

オーン先生の衣鉢を継ぐミャンマー側代表者から、そしてオーン先生のご子息からも、このお通夜の席で、日本とミャンマーは特別な関係です。今回日本の西部広域で起こった洪水・山崩れにはミャンマーのすべての人間が心配し、心を痛めている。多数の犠牲者のご家族に私たちの気持ちを伝えていただきたいと頼まれた。TK氏もワタシもジーンときた。ワタシの出来ることは何もない。だが、このちっぽけなメルマガでミャンマーの人たちの心優しき気持ちをそのままお伝えさせていただきます。

このオーン先生はマングローブ植林プロジェクトのミャンマー側代表者で、向後元彦氏は日本側代表者である。向後氏は現在夫人をはじめ20人近くの山岳仲間とともに、南米アンデスの万年氷河越えのトレッキング中で、連絡が取れない。同行者にはマングローブおよびこんにゃくプロジェクトの関係者も多数含まれている。ペルーの町か村かまで下山され、メールに接続できたら、是非とも連絡ください。

このオーン先生は、ミャンマーを代表する自然環境保全の大家で、ポッパ山周辺の自然公園にも名前を残されているが、その功績はミャンマー全土に及ぶ、軍事政権時代には常に反逆の精神で臨み、スーチーも環境保全に関してオーン先生の講義に参加している。2005年には日本の愛知エキスポで地球を愛する100人の一人に選ばれた。2007年には日本の水俣市長から環境のための水俣賞で顕彰されている、向後さんとこのオーン先生のお二人は、ノーベル賞に匹敵する世界的な功績で、イギリスのキュー王立植物園からも一目置かれる学者先生でもある。このお二人については、また日を改めて、お話したい。バックナンバーで古いメルマガを繰っていただければ、その一部を知っていただけるはずだ。メルマガVol.77号(2014年1月15日)からVol.82号(2014年2月19日)にかけてワタシが感動した現場活動を掲載している。

オーン先生の葬儀は本日7月13日(金)午後3時からYWEWAYの葬儀場で行われる。享年91歳。合掌。


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