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<ミャンマーで今、何が?> Vol.324
2019.8.28
http://www.fis-net.co.jp/Myanmar

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━━【主な目次】━━━━━━━━━━━

■ヤンゴンの歴史散歩〜その三

 ・09: “DAY3”がスタートした

 ・10: 画期的な旅行代理店が孵化するか?

 ・11: アウンサン青年、密出国の現場

 ・公式ツイッター(@magmyanmar1)

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・09:“DAY3”がスタートした

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この日は“殉難者の日”で、公官庁銀行などミャンマーのほとんどの職場が休日となる。
「アウンサン物語2015」には、その日その時間、その場で陸上交通が一斉に停止して、哀悼のクラクションを一分間鳴らす、とある。

父親の足跡を偲ぶのが主目的だが、我が友人は、この文章に誘われて、この日を中心に訪緬のスケジュールを組んだ。その日その時間とはアウンサン将軍以下9名が旧総督府で閣議中に射殺された7月19日午前10時37分を指す。ミャンマー独立の半年前であった。

目的の10時37分まで、時間はまだたっぷりある。
スーレー近くのホテルからスタートしてゆっくりと徒歩で問題の現場に向かうこととした。これも歴史散歩の一環である。

歴史を紐解くと、スーレーを含めた下街一帯はガマの穂やカヤ・イグサが繁る湿地帯であった。熱帯モンスーン気候に属し、この湿地帯はマラリアやデング熱の温床で、居住するには不健康な地とされた。この広大な一帯を埋め立ててイギリスは巨大な樹木が繁る緑溢れる熱帯のガーデン・シティをつくりあげた。

大河イラワジ川が押し流してきた自然の砂州の上層に4百万立方フィート(*=113,266立方メートル)の土を運び込み、明治維新と同じ1860年代に、碁盤の目状の巨大な都市をつくり上げた。

若いミャンマー人は知らないが、ラングーンの下街をつくったのはビルマ人ではない。ビクトリア王朝の一流のアーキテクト、土木技師、石工、建築家などを連れてきたイギリス人だった。
そこにはロンドン大火(1666年)で再建の腕を振るったクリストファー・レン以来の伝統のノウハウが受け継がれていた。

ラングーン開拓の出発点は、今はYCDC(ヤンゴン市庁舎)とエマニュエル教会が聳え建つ、その一画にあった広場である。今は整備されてマハバンドゥーラ公園となっているが、その真っ白な独立記念塔前面の北の広場がそうである。この中心には象徴として威風堂々としたビクトリア女王の銅像がニラミをきかせていた。だが、それは撤去され今の独立記念塔に場所を譲った。

エマニュエル教会に並んで南側に目立たない政府の観光局事務所がある。
事務所が開くのを待って、インド系の顔立ちをした年輩の婦人に、終戦直後の日本人戦争捕虜が存在した跡地に付いて、当時を推定できる書き物はないか、あるいは当時を知る80歳以上のお年寄りと面会できないか、問い合わせてみた。書庫を漁っていたが、戦争直後の想い出は風化され、ヤンゴンの市内マップを幾つか得るに終わった。

手がかりがすべて消え失せたわけではない。
次にパンソダン大通り南端近くにあるYHT(*ヤンゴン・ヘリテッジ・トラスト=ヤンゴン文化遺産基金)を訪ねた。ここはヤンゴン市内に残された数多くの歴史的建造物を特定し、順次遺跡としてブルーの銘板を取り付ける権限を委託されている。ビルマが生んだ偉大な国際人ウ・タント(第三代国連事務総長)の孫タンミエンウーがこの運動の主唱者で、総裁でもある。

この日は殉難者の日で休日ということもあり、事務所内はがらんと静まり返っていた。当番らしい若い女性がひとりいたが、ここも時の流れを感じる会話で終わった。だがメンバーにはシニアの役員もいるので事前にメールで相談すれば、お役に立つかもしれないと言ってくれた。

そこの展示場に張り出された英国海軍の海図(*当時の市内が描かれた古式地図である)や数多くの写真は、ビルマのそしてラングーンの歴史を語ってくれる。どうしてここにフルシチョフの写真が展示されているのか前から疑問だった。前回ご説明したインヤ・レーク・ホテルの由来を調べるうちに合点がいった。ビルマ独立後の初代首相ウ・ヌーの写真も何枚か展示されている。

まだまだ時間はたっぷりある。

ボーガレイゼイの朝市が立つ一本隣にあるムスレムの人たちに人気のレストランに友人を誘った。骨太のオックステールが長い時間煮込まれ柔らかく実に美味い。オックステール・スープではない牛の尻尾そのものである。その他にも羊や、ヤギなども喰える。ローカルのイスラム教徒は右手の指だけで器用に食べる。だからレストラン入り口には洗面台が2つあり、客は食事の前に手を荒い、食事の後に脂ぎった指を洗う。

ラマダンの終わりを告げるイード・デイの日などは、黒尽くめの女性陣と大きな瞳の子供たち大勢を引き連れ、この質素なレストランはムスレムの家族でごった返す。
だが、今日はまだ早い時間帯で、仕込みの準備中であった。この日は食事をせず、その仕込を見学するに終わった。

時間潰しを兼ねて隣の朝市をゆったりと散歩した。足の踏み場もないほどに混雑している。時々、野菜・生きた鶏・フルーツなどを運搬してきた小型トラックが、かろうじて徐行していく。周りの人たちは大変だ。道路の両脇に広げた商品を踏まないように苦労して身を避ける。生きたナマズがにょろにょろ逃げ出す。こうやって朝市をマーチャント通りからストランド通りまで行って、また戻ってきた。



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・10:画期的な旅行代理店が孵化するか?

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そこで生徒の一人が道案内として合流してくれた。
本日のメイン・イベント殉難者の日を、言ってみれば、大相撲の砂かぶりの席で見学する手筈を整えてくれた優秀な学生である。彼女にはすでにインポシブル・ミッションが与えてある。

先ずは自分たちで旅行代理店を立ち上げた積もりでCEOになりきること。そしてユニークなヤンゴン案内をつくり上げるケース・スタディである。遠来の友人には勝手ながら内緒で、稽古台になってもらうこととした。友人は英語が達者なので、その点では最適だ。何も知らない友人は、支離滅裂な説明をする白髪頭よりも、英語は不十分だが若い黒髪を喜んでくれた。

コロニアル時代の古いビルの入り口は木製の柵が塞いでいる。無理矢理こじ開けると中は薄暗い石の階段だった。強固な石の階段だが、中央部はかなり磨り減っている。何階か上の方に至ると木製のドアがあった。

そこをノックすると旧総督府を真正面に見渡すバルコニーの女主人が出てきた。
そこが本日のハイライト、ビデオ中継の現場である。メルマガで初挑戦したビデオクリップはVol.320(*8月8日付)号をご参照願いたい。

プロバイダー殿の協力で達成できたビデオ中継だが、生徒たちとレビューすると、決して満足ではなく、改善すべき点がいろいろ見えてきた。

総督府の正門に行くと、有料で総督府の一般見学を募集する立て看板が目に付いた。そのガイド内容は不明だが、ヤンゴン・ヘリテッジ・ファンドやインド大使館の資料から独自の調査は進められる。この旧総督府および、それを取り囲む建造物には、ヤンゴンの歴史が凝縮されている。旧総督府の敷地内に足を踏み入れなくとも、外周を一周するだけで、最低限一時間ぐらいのツアーは準備できる。もう一歩踏み込んだケース・スタディの構想が浮かび上がってきた。

生徒に抜かりはなかった。すでにバルコニー女主人とは電話番号を交換しており、直ぐに連絡をとってくれた。

旧総督府の南面にはマハバンドゥーラ大通りが西から東に走っている。そこには古色蒼然たるコロニアル・タイプのビルが堂々と建っている。その一例が1928年から1929年にかけてインドの織物貿易商が建てた“Harsooty Mansions”やほぼ同時期に建てられた“Ibrahim Buildings”などである。

そのグラウンド・フロアは英国独特の表現で、米語での一階を意味する。英国の1Fは、その上の階(米国の2F)からはじまる。日本は何でもかんでも米国式を採用し、ビルの階数は下から単純に一階、二階とチープな勘定をするが、英国式のGround Floorは天井がはるかに高く、何と言っても威厳がある。吹き抜けとなったホテルのロビーを思い出して欲しい。

ミャンマーでは地上階が今でも一段と高い価格で賃貸されるのは、英国の歴史が影響しているからである。ビルマ式社会主義がすっかり荒廃させてしまったが、“Harsooty Mansions”や“Ibrahim Buildings”のグラウンド・フロアは、往時は商業施設として使用され、その上の階は居住用に供された。

一般にビルマ人は、インド人を一緒くたに“カラー”と呼びバカにするが、これは9・11以降イスラム教徒を怖れてムスレム社会すべてを相手に戦争を挑んだ愚かなブッシュ政権と同レベルの無知から生まれたものである。スーチーが若者たちに言ってきかせるように、我が英語教室の若者たちにも、“Harsooty”や“Ibrahim”の名前からもヒントを探り出し、そのルーツを訪ねる知的冒険がここヤンゴンにいて可能なことを実証していきたい。

因みに“カラー”とは英語の“Coloured People”が訛ったもので、インド人はビルマ人より
肌が浅黒いと、その目くそ・鼻くそをあざ笑うビルマ人の言葉である。ビルマ人は一緒くたにするが、あの黒い衣装を纏った中にはペルシャ系の女性も含まれている。人生長生きすると、時には幸運に恵まれることもある。その肌は透き通るような白さであった。とあるJICA夫人から、スリランカの産院で生まれたばかりの新生児の肌が真っ白で驚いたと、聞かされたこともある。

インド大使館の図書館は歴史の宝庫である。ヤンゴンの裏通りを散策すると、朽ちかけたビルの入り口には浮き彫りにされたインド系、ペルシャ系、アフガン系などの名前と建造年が刻まれている。これらのミッシング・リンクを紡いでいくと、セピア色の往時がビビッドに蘇ってくる。生徒たちとやるべき仕事が見えてきた。

この旧総督府は1889年から1905年という年月を掛けて建造された。
しかし設計技師たちは苦労したらしい。土台がもともと湿原地帯である。重厚な建造物を築くとなると地面から水が浸み出してきた。さらに彼らを惑わしたのは、連日降り続く4ヶ月間のモンスーン雨季であった。一時も休みなく水を掻き出す仕事が加わった。

英国の土木技師が呼ばれ、あらゆる専門家が知恵を出し合って検討を重ねた。
先ずは地下地盤を安定化させる必要がある。ビルマにはPyinkadoという極度に堅く重い土着の樹木が繁っている。丸太は水に浮くという常識を覆すピンカドーは、堅くて重たく水に沈むのである。大工が使う普通のノコギリでは歯が欠けて役に立たない。

そのピンカドーをパイルとして約4メートルの深さまで打ち込み、その上部を鉄棒で格子状に覆った。内部を飾るレンガの到着が遅れ、工事の遅延が問題となった。そこでレンガなどの石材は現場で製造することとした。だから堂々たる旧総督府は英国とビルマの合作ということができる。

ほとんど“無”からヤンゴンの歴史が解き明かされていく。
これらは若者たちの強力な武器としてホテル&観光業者に売り込むことができるし、自分たちで画期的なガイド業を組織してもよい。だが焦らないことだ。若者たちには未来に取り組む時間がたっぷり有る。



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・11:アウンサン青年、密出国の現場

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7月19日の殉難者の日は、砂ッかぶりの特等席でビデオを撮影した後、旧総督府を反時計回りに一周してみた。テインビュー通りの正門前は両方向に長蛇の列が並び、厳重な警戒のもと大勢の参拝者がアウンサン将軍の聖地とされる敷地内に吸い込まれていく。

一旦ホテルに戻った。
時間もちょうど良い頃だ。昼飯をどこにするか、相談した。レパートリーは幾つもある。
そうだと思いつき、今日はアウンサン将軍尽くしで行こうと、タクシーでナンティダ・ジェティに向かった。ローストダックで有名な“ジュニア・ダック・レストラン”である。1905年に竣工したラングーンの貴婦人と謳われた“ストランドホテル”の真ん前に位置する。

今は中華系レストランにオーナーは変わったが、ひと昔前は、ストランドホテル直営のレストランであった。窓際の席は川風が吹き込んで気持ちよい。そしてビールが美味い。
ちょうど上げ潮なのだろう。ヤンゴン川はモンスーン雨季の雨水も呑み込んで水位が高く川幅も広い。川幅の中央には大型の貨物船が浮きブイに錨を下ろしている。

ここからほんの少し上流がパンソダン・ジェティである。ロンドンのテームズ川もそうだが、ジェティとは桟橋のことである。
『アウンサン物語2015』第19話:ラングーン脱出の検証を引用させてもらう。

「アウンサンとラーミャインは中国服を着込み、英国官憲の目をかいくぐり、ノルウェー船ハイリー号(海利号)の上甲板船客として、ラングーンを脱出した。1940年8月8日のことであった。同船は中国・サイアム航路に従事する貨客船である・・・」

「当時、タキン・アウンサンはドバマ協会の役員として全国各地を飛び回り、反植民地主義・民族統一・ビルマ独立を果敢に訴えていた」 ド・バーマとは我らビルマ人という意味で、彼らは自分たちがビルマの主人という意味で各自名前にタキン(*マスターを意味する)を付けて呼び合った。

「植民地主義者どもを叩き出すため、国民は団結しよう!」という演説がイギリス植民地政府をかんかんに怒らせた、アウンサンは5チャットの懸賞金でビルマ全土に指名手配された。5チャットというのは印刷ミスではない。田辺寿夫の解説では、わざと小額にしてアウンサンを小モノ扱いしたという。

話を戻すと、当時、日本船の動静はすべて英国官憲にマークされ、日本船での密航はほとんど不可能であった。そこでノルウェー船が選ばれたようだ、とある。
その密航現場が、ヤンゴン川中央の浮きブイに停泊する多分パンソダン・ジェティ沖合いと推定されている。

さらには、第27話:ビルマ脱出、第2陣には、
後の三十人の志士を構成する7人のメンバーのハラハラドッキリのドキュメンタリーが詳細に物語られている。

このようにヤンゴンの至る所に、ビルマの歴史が埋もれている。
ヤンゴンの和式居酒屋で同胞と情報交換するも良し、ヤンゴンの人たちに融けこんでミャンマービールを呷るのも良し。
若者たちも、少しずつ、自分たちの歴史に興味を抱き、誇りを持ち始めたようだ。

ヤンゴンの“DAY3”は終わった。だが、物語はまだまだ続く。


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