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<ミャンマーで今、何が?> Vol.325
2019.9.3
http://www.fis-net.co.jp/Myanmar

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━━【主な目次】━━━━━━━━━━━

■ミャンマーのMは、ミステリーのMでもある

 ・01: ヤンゴンの歴史散歩“四つのお墓”

 ・02: ミャンマーの歴史は小説よりも奇なり

 ・03: ウ・ソウの破天荒な世界一周旅行

 ・04: ウ・ソウの天国から地獄人生

 ・05: またしても「群盲、巨象を撫でる」

 ・公式ツイッター(@magmyanmar1)

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・01:ヤンゴンの歴史散歩“四つのお墓”

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一昨日8月31日(土)日刊英字紙GNLMを見て驚いた。
第14/15見開きページに“シュエダゴンパゴダ麓の4つのお墓”と大きな赤い文字の表題で考古学者が詳細な情報を提供してくれているからだ。しかも、4枚の写真付きで。

今回日本からの友人も真っ先にこの場所にお連れした。
そしてメルマガの歴史散歩(Vol.321 8月13日付)で採り上げた。
ここには“コドウマイン”“スパヤーラッ”“ドー・キンチー”“ウ・タン”の4名が眠っている。この4名の歴史的運命を知れば、ミャンマーが見えてくると考えたからだ。

この考古学者から学んだ新聞記事を追加しておきたい。


■“タキン・コウドウマイン”の墓
1921年、英国の国王長子(プリンス オブ ウェールズ)を讃える詩を高額の対価で求められたが、外国人を賞賛する詩は書きたくないと拒否した。
1930年、支配者英国に反抗するサヤサンの農民蜂起運動が始まると、農民を擁護する記事を日刊紙“トゥーリア”に書いた。
1934年、“Doh Bamar Asiayone”(*=我らこそビルマの主人連盟)の総会でそのパトロンに選ばれ、反植民地主義と民族の自由をビルマ全土で説いて回った。
1953年、中国、モンゴル、ハンガリー、ソビエトを訪問し平和運動を訴えた。
1957年、セイロンとインドでの平和会議に出席した。
1960年、ドイツのハンブルグ大学から名誉博士号が授与された。
1964年7月23日、ビルマの平和主義者であったタキン・コウドウマインは歿し、この地に埋葬された。


■“スパヤーラッ”の墓
キング・ティボウの第一夫人。
1885年、大英帝国は国王を廃位しインドに遠島とした。王位在位期間はわずかに7年で、当時キング・ティボウは27歳、王妃スパヤーラッは26歳であった。
インドでの幽閉期間は30年に及び、キング・ティボウは1916年インドのヤダナギリで歿し、遺骸のビルマ移送は英国政府から許されず、その地で荼毘にふされた。1919年スパヤーラッは貴国・ラングーンに住むことは許されたが、王宮のあったマンダレー訪問は禁止された。1925年11月24日、スパヤーラッは66歳で歿し、ラングーンのこの場所に埋葬された。その葬儀には90名のサンガ(*修行する僧の集団)と英国の弁務官が出席した。その栄誉礼には王家を象徴する8本の白い傘が掲げられ、30発の礼砲が響いた。すでに歿した6名の王家親族がこの墓石を取り囲むレンガに刻まれているという。実際、この墓石にはパーリー語およびビルマ語のみ刻まれ、外国人には誰の墓か謎であった。


■“ドー・キンチー”の墓
志願教師の職を辞した後、日本占領下のDr.バモウ大統領政権下のラングーン総合病院で看護婦の職に就いた。そこで負傷したアウンサン将軍と出遭い1942年9月6日に結婚した。
アウンサン将軍暗殺後、夫の選挙区からMP(*国会議員)に選ばれ、1947-1953年ビルマ女性連盟理事、1953-1958年社会福祉計画委員会議長、同時にコロンボ会議ビルマ代表団の議長に選ばれた。1960-1967年、駐インドおよびネパールのビルマ大使となったが、これはビルマ初の女性大使であった。そして1988年12月27日に歿し、この墓地に眠る。
アウンサンスーチーの父方の祖母も、母方の祖母も共に、“ドー・スー”という同名であったことをこの記事から学んだ。



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・02:ミャンマーの歴史は小説よりも奇なり

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スーチーはミャンマーを理解しない海外の首脳・外交団に、ミャンマーは複雑だと強調している。日本の外務大臣にも、そのように説明したが、当時の外務大臣はその意味をまったく理解されなかった。

イギリスの詩人バイロンは“事実は小説よりも奇なり”と語った。
ミャンマーの歴史は、それを上回るミステリーに包まれている。

その一例ともいえる“ある人物”の話をしたい。

1941年12月7日、パンアメリカン航空のクリッパー機がサンフランシスコからハワイのホノルル経由シンガポールに向かった。その後、ニュージーランドのオークランド、そしてオーストラリアのシドニー訪問が真の最終目的地である。

大型飛行艇は給油のためにホノルルに着水した。現地時間12月7日の午後である。
1941年とは昭和16年のこと。
12月7日とは大日本帝国海軍の機動部隊がハワイ・オアフ島の真珠湾を攻撃した正にその日である。

太平洋戦争が勃発した真珠湾に、しかも奇襲攻撃直後の午後に到着した大型飛行艇には、ビルマの歴史を狂わせた人物が搭乗していた。偶然にしては小説よりも奇なりだが、事実である。
ミャンマーと日本の因縁話は言い古された、アウンサン将軍と三十人の志士、あるいは鈴木敬司大佐が表舞台だが、その裏面史にこの人物の行動が隠されている。

この辺りの事情は根元敬著「抵抗と協力のはざま」(岩波書店2010年6月23日第一刷発行)が詳しく語ってくれる。それを参考にして以下の通り説明したい。

ある人物とはアウンサン将軍を暗殺した、その陰謀の黒幕ウ・ソウのことである。



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・03:ウ・ソウの破天荒な世界一周旅行

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戦後の1947年11月5日、下野したチャーチル保守党党首はこの事実を英国下院議会で明らかにした。
どうして当時野党の党首であったチャーチルがウ・ソウのことを議会で採り上げたのか、説明が必要だ。スーチーが語る“ミャンマーは複雑”は、表面的な歴史教育しか習わない外交官にはなかなか理解できない。

複雑なウ・ソウの行動を極力簡潔に説明しようとするが、それでも複雑になってしまう。
お許し願いたい。

学歴の貧弱なウ・ソウは老獪な策を弄して念願のビルマ首相に就任した。
1941年9月23日、ウ・ソウは首相補佐官のティントゥッを同行して、ラングーンから飛行機で英国に向け飛び立った。翌4日付のロイター電は「ウ・ソウを乗せた飛行機がラングーンを象徴するシュエダゴンパゴダの上空を三回まわったあと、西に向かって飛び去った」と報じている。

カルカッタ、カイロ、ラゴス(アフリカ西海岸)、リスボンなどを経由して、10月10日に英国ブリストル市の飛行場に到着したウ・ソウは、同地から鉄道でロンドンに向かい、ハイドバークコーナーにあるドーチェスター・ホテルに入った。
ウ・ソウは11月5日まで26日間英国に滞在した。昨今のサミットに比し、当時の悠長な旅程を想像してほしい。

その間、チャーチル首相、ウッド蔵相、エイマリー(インド・ビルマ担当大臣)と、それぞれ二回ずつ、イーデン外相およびモリソン内相とはそれぞれ一回会談を行った。さらに、ウ・ソウの強い希望で国王ジョージ六世への謁見も叶った。そのほかロンドン市長やコックレイン前ビルマ総督とも一回ずつ会っている。

英国がウ・ソウを受け入れた主目的は、「ウ・ソウを教育すること」に特化されていた。
ウ・ソウが目指したビルマの早期ドミニオン化は一切の議題から遠ざけられた。ドミニオンとはイギリス連邦(コモンウェルス)内の自治領を指す。

最初にウ・ソウの最終目的地はニュージーランド、オーストラリアであったと書いたのはドミニオンの実情を視察するためであった。歴史が狂わなければ、ビルマがカナダ・NZ・豪州と同じ体制の国家になっていた可能性もあったということである。



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・04:ウ・ソウの天国から地獄人生

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誤解されないために、クドイ説明をするが、ウ・ソウが英国を訪れた時期は、第二次世界大戦(西部戦線)の真っ最中で、ヒットラーによるロンドン空襲も経験し、遥か極東ではドイツ・イタリアと三国同盟を結んだ日本が真珠湾攻撃のドラマを開始したばかりの時代で、まったく勝敗の予想が読めない時期であった。

ウ・ソウは機会あるたびに、ビルマの早期ドミニオン化を訴えようとしたが、老練で老獪な英国政府は「戦争終結後に、具体的な話し合いをすすめる意思を有する」と問題をはぐらかし、まともに取り上げなかった。

むしろ親善訪問を強調し、英国側はウ・ソウ歓迎の夕食会、昼食会、シェリー酒パーティを滞在中に十五回以上設定した。その内最も盛大なパーティには、ビルマ省から二十六人、インド省から三十人、そのほか外務省、大蔵省、ドミニオン省、植民地省、陸軍省、海軍省、空軍庁、経済戦争庁、貿易委員会、情報庁、戦争交通庁、内閣官房、ロンドン大学東洋アフリカ研究院、ビルマ進出英国企業各社などからそれぞれ多くの出席者があった。少なくとも見た目には、植民地からやって来た首相を熱烈に歓迎する雰囲気に満ちていたと「抵抗と協力のはざま」には書かれている。

結局ウ・ソウは11月5日、本来の成果を挙げられず、来た時と同じプリストル市の飛行場から英国を飛び立ち、次の訪問地である米国へ向かった。途中立ち寄ったポルトガルのリスボンからは、チャーチル首相宛てに電報を打ち、戦後直ぐのビルマのドミニオン化を約束して欲しいと申し入れたが、当然のことながら、それは退けられた。

リスボンから大型飛行艇のクリッパー機に乗って大西洋を越え、11月12日に米国の首都ワシントンDCに着いたウ・ソウは、ルーズベルト大統領、ハル国務長官と会い、ドミニオン問題で英国を説得してくれるよう協力を求めたが、すでに英国側からは事前にウ・ソウの意図を公電で知らされていた米国は、ウ・ソウを慇懃無礼に扱い、米国政府としてはビルマを中国国民党政府の蒋介石政権への重要物資補給ルートとしてのみ認識していると回答するに留まった。

このあとウ・ソウは11月24日から一週間、カナダを訪問したが何ら成果無く、12月1日、米国のサンフランシスコに移動した。

ウ・ソウは英国滞在中に、米国とカナダを訪問したあとに、太平洋周りで英連邦ドミニオンのオーストラリアとニュージーランドを訪れ、カナダ以外のドミニオンの実態についても視察を行いたい旨希望を提出し、総督とビルマ省からその許可を受けていた。
ウ・ソウの灰汁の強さが臭ってくるエピソードである。

そこでウ・ソウは12月7日にサンフランシスコからパンアメリカン航空のクリッパー機で途中給油地のハワイ・ホノルルに向かった。そこでウ・ソウが目にした惨状は“事実は小説よりも奇なり”であった。

ウ・ソウ首相の狙いは、ビルマの早期ドミニオン化の約束を英国政府から勝ち取り、それを手土産に翌年に迫った総選挙でウ・ソウ政権の続投を磐石のものとすることにあった。

だがその夢は叶わず英国では表面的な歓迎行事に終始し、今自分の目で日本軍の劇的な奇襲成功を目撃し、しかも米国太平洋艦隊の大損害を目の当たりにした。
政治家ウ・ソウがある大英断に賭けたとしてもオカシクナイ。

このクリッパー機の飛行はホノルルで打ち切られ、ウ・ソウはそこで足止めをくらった。
英国ビルマ省はこのときウ・ソウとの連絡を数日間失ってしまったと記録している。

数日後、米本土へ戻る飛行艇に席を確保したウ・ソウは、サンフランシスコに着くと鉄道で大陸を横断しニューヨークに行き、ニューヨークから飛行機で英領バミューダ経由で太平洋を渡り、12月29日に中立国ポルトガルの首都リスボンに着いた。ウ・ソウにとっては二度目のリスボンである。そこに年末年始の五日間滞在し、年が変わった1942年1月2日にBOAC(英国国営航空)の飛行艇カタリナでリスボンを離れ、マルタ、カイロ、ティベリアスなどを経由してビルマに向かった。

リスボンに滞在した五日間のうち、ウ・ソウは大胆なことをやらかした。
ウ・ソウは英国の敵国となった日本の公使館に駆け込み、一転してビルマの対日協力と日本の支援に基づく「自由ビルマ政府」の設立を申し出た。

日本軍が東南アジアに全面侵攻してビルマにも押し寄せてくる。このまま英国と付き合っていたら将来自分の政治的立場が危うくなると判断した。これは英領一植民地の首相による宗主国に対する最大の背信行為である。

日本公使館はウ・ソウの申し出を本省宛に暗号電報で打電した。
何度かメルマガに書いたが、当時日本の暗号電報はすべて米国海軍に傍受され、数日のうちに解読されていた。米国政府はチャーチル首相に緊急警告電報を極秘暗号で打電し、ウ・ソウの裏切りを伝えた。当然英国政府は激怒した。

ビルマへの帰国途上にあったウ・ソウ首相と同行のティントゥッ首相補佐官はパレスチナのティベリアス空港で降ろされ拘束された。二人はエルサレムに連行され取調べが始まった。

英国政府はウ・ソウを国家反逆罪で起訴しようとしたが、そのためには米海軍が解読した日本の暗号電報を裁判で証拠として示す必要がある。今では誰もが知る事実だが、当時日本政府は暗号電報が解読されていることに気付いていない。連合国に絶対的に有利な手の内をさらけ出すべきではない。判断に悩んだ英国は、国益を最優先して起訴を諦め、超法規的にコトを処理した。

ウ・ソウは即刻首相職から解任され、1942年4月初めに、秘密裏にアフリカの英領ウガンダに送られた。そしてボンボという小さな町の一軒家に無期限で軟禁された。
第二次世界大戦が終了すれば、英連邦ドミニオンのビルマ初代首相にもっとも近かった主役が、政治の表舞台から突然奈落の底に転落した。かといって政治的に死んだわけではない。この男は地獄の底から這い上がるのである。



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・05:またしても「群盲、巨象を撫でる」

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ビルマ国内では、ウ・ソウの首相職解任と、敵国日本との接触という解任理由が1月19日に発表された。証拠である暗号電報解読は完全に伏せられた。

戦後になるが、ウガンダでの軟禁生活から開放されたウ・ソウは1946年1月29日に帰国した。4年4ヶ月ぶりの祖国では政治の潮流は大きく変わり、ウ・ソウの時代は完全に終わっていた。

ウ・ソウがかっては相手にもしなかった15歳齢下のアウンサンがビルマ民族主義者の代表として、英国と独立交渉を始めていた。
ウ・ソウが不満を募らせ、アウンサン将軍暗殺の陰謀を抱いたとして不思議ではない。
その歴史のイタズラがアウンサン暗殺物語に繋がり、そして殉難者の日に結びつく。
これらの経緯はすでにメルマガですでにお伝えした。

ミャンマーの歴史は複雑で、どれほど綿密に準備しても、「群盲、巨象を撫でる」の類でしかない。ここいらで筆を擱きたい。



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