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<ミャンマーで今、何が?> Vol.388
2020.10.29
http://www.fis-net.co.jp/Myanmar
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━━【主な目次】━━━━━━━━━━━

■忘れ去られたビルマの王家 その1

 ・01: 2020年10月28日(水)午後8時発表

 ・02: 物悲しいビルマの歴史

 ・03: 心に秘めたある人物の決心

 ・04: インド西海岸のラトナギリ(*Ratnagiri)

 ・05: 外交官に匹敵する老獪で慎重なはかりごと

 ・06: 英国に劣らず老獪学を究めたミャンマー人

 ・公式ツイッター(@magmyanmar1)

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・01:2020年10月28日(水)午後8時発表

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陽性感染者数合計:49,072名
新感染者数合計:1,406名
死者数合計:1,172名
退院者数合計:28,636名
現在検査中:19,264名
出典:保健スポーツ省



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・02:物悲しいビルマの歴史

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ロックダウンYANGONで余裕ができた。居候のホスト国ミャンマーを学び直す絶好のチャンスだ。さいとうナンペイ著『アウンサン物語2015』で、1915年生まれのアウンサン将軍の時代まで遡った。だがビルマにはさらに深遠な歴史が眠っていた。

かといって分厚い歴史書は必要ない。いまはビジュアルの時代だ。YouTube濫読中に偶然出くわした秘話がある。英国がアッパー・ビルマを攻め落とし全土を植民地化した第三次英緬戦争にまつわる話である。狡猾で老獪な英国により、この悲話は歴史から消し去られ秘話となった。

その時代を俯瞰すると、1877年ビクトリア女王宣言によって英国の植民地としてインド帝国が成立した。10年後の1887年フランスはベトナム・カンボジアを支配し、仏領インドシナ連邦の植民地化を成し遂げた。

フランスの元外交官フェルディナンド・ド・レセップスはスエズ運河を1869年(*明治2年)開通させ、歴史に名を残した。そのレセップスがパナマ運河に着手したのが1881年である。が挫折し、開削に成功したのはアメリカ政府だった。

このように当時の英国とフランスという両大国は覇権を争そい、地球儀を我が物顔でケーキのように切り取り、自分の領土としていった。

日本でも旧徳川幕府をフランスが支援し、維新政府を英国が応援した。ご承知の通り明治元年は西暦1868年である。この年を基本にすると世界は俯瞰しやすい。
実は英仏の領土争奪戦は、このビルマでも行われていた。

早速YouTubeの世界に飛び込もう。
『How Colonial Britain Erased Burma's Royal Family / Burma’s Lost Royals /Absolute History』Sep 17, 2020で検索する。仮訳は“植民地時代の英国はビルマのロイヤル・ファミリーをいかに消し去ったか?/ビルマ最後の王家”としておこう。

このYouTubeに出遭ったのは濫読鑑賞の真っ最中だった。偶然の出会いである。モゴックの山中で、人知れず巨大なピジョン・ブラッドを掘り当てた気分だ。すぐにノートに記録した。ついていけない個所は何度も巻き戻し、繰り返し検証した。

タイミングよく日本の友人が一時停止、再スタートにはキーボードの“k”を押せばよいと懇切に指導してくれた。これは重宝だ。この“k”に習熟すれば作業は捗る。「持つべきものは朋友!」である。ヤンゴンにいても在宅勤務の気分が味わえる。

この番組はAbsolute Historyという歴史シリーズのひとつとなっている。YouTubeへの依存症はかなり重症で、他のシリーズ番組も片っ端から目を通した。実に見応えがある。
興味深々だが、いまはミャンマーの歴史に集中したい。

いま海外はスーチー問題で騒々しい。だが一時、浮世の話しは忘れよう。
老獪な英国がビルマに対して、そのラスト・エンパラー家族にどれほどの悲劇をもたらしたか、ドラマがはじまる。

ナレーションも字幕も英語版である。ドラマの筋書きは下記のとおりです。どうぞイメージを膨らませて鑑賞いただきたい。

1885年英国軍は上ビルマに侵略し、その王家を廃絶した。王は流浪の身のままインドで亡くなった。ビルマ最初の統一国家であるバガン王朝、ヤンゴンの大通りに名前を残すアノーラッタが王座に就いたのが1044年である。それから千年続いたビルマの王家は死に絶えた。

「私の名前はU Soe Win。ビルマ最後の王、ティボウ王のGreat-grandson(*ひ孫)である」とナレーターが自己紹介する。ビデオ画面には赤いポロシャツの人物がクラッチバッグを抱え混雑した道を早足で急ぐ。後姿しか見せない。赤シャツの背中にはSOE WINとプリントしてある。ビデオが早足を必死に追いかける。

ゲートに辿り着き赤シャツが後を振り返る。ビデオ撮影中のカメラマンを手招きする。
この主人公の顔がはじめてビデオに写る。メガネを掛け独特の口ひげを生やしている。
大入り満員のサッカー場である。U Soe Winは中段の指定席に落ち着き満足そうに上段から下段まで場内を見回す。

「SUZUKI CUP2016年」と書かれた横断幕から、ここはトゥワナ・サッカー場で、ヤンゴン最大のサッカー場だ。スポンサー会社名と開幕年数も見て取れる。ビデオは主人公をアップで捉えた。独特の口ひげはマンダレー宮殿のティボウ王を意識して蓄えたのだろう。曽祖父に似ている。彼の語りは続く・・

「王が死に100年経った。今でもティボウ王はインドに眠っている。英国政府は遺骸の祖国への移送を許可しなかった。私はミャンマー人として母国のために働きたい。祖国はビクトリア女王にプレゼントとして献上された。新年の贈り物としてだ。ひとつの国を軽々にプレゼントするなど許されるものではない」。

サッカー場の横断幕からU Soe Winのビデオ撮影は2016年と判る。この西暦年で見えてくるものがある。テインセインの軍事政権が終焉したのが2016年3月31日であった。微妙な年である。そしてスーチーの民主政権がはじまった。

主人公の語りは続く。「祖国は威厳を徐々に取り戻し始めた。マンダレーの王宮は第二次世界大戦ですべて灰燼に帰した。イギリスと日本が戦い王宮を焼き尽くした」。

主人公U Soe Winは神経質なほど言葉を選び語る。画面から痛いほど伝わってくる。どういう経緯か知らぬが、このビデオ撮影には多くのイギリス人が係わっておりプロデューサーも、カメラマンも務めている。彼らの協力を得て、この動画は出来上がった。

だが廃絶された王家の一員として、英国に対しては忘れがたい憎しみが募っている。しかしだ、忘れ去られた王家を世界中に知らすには、イギリス人の協力なくしては絶対に出来あがらない。そのジレンマがU Soe Winの作り笑いから痛いほど伝わってくる。

英国に長いこと虐げられた王家の血脈は、英国人以上に彼を老獪な二重人格者に鍛え上げたのだろう。不可思議な表情だ。この動画では、憎しみの対象は英国である。同様にミャンマー人も表には出さない老獪さを脈々と英国支配から学習してきた。

ときどき歴史を知らない若き旅人が無神経な言動を示すこともある。ヒヤリとする。この国を軍靴で蹂躙したのは英国だけではない。日本も同じ愚を犯した。歴史を学ぶにはこの動画はピッタリだ。・・の歩き方以上にお勧めしたい。

シュエダゴンパゴダ南門近くに不思議な一画がある。不思議な霊気が漂っている。
個人的な話しだが、ミャンマーを真剣に知ろうとする人がいると、必ずお連れする場所である。なぜだか、段差もバラバラで、上から俯瞰しても墳墓あるいは廟が不統一に配置してある。

向かって左から、ミャンマー憂国の詩人タキン・コウドウマイン、アウンサン将軍夫人のドー・キンチー、ビルマ最後のクイーン・スパヤラット(*ティボウ王の妃である)、少し離れてビルマ屈指の国際人ウ・タント国連元事務総長、これら合計四名がこの一画に眠っている。

この四名には何の関連もない。だがひとつだけ大有りの理由がある。この四名とも表立って、あるいは静かに心の奥底で軍事政権に楯突いた反逆者たちであう。テインセインの時代まではこの一角は草茫々で、近寄ると秘密警察がいつの間にか摺り寄り、即刻追い払われた。危険な場所だった。



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・03:心に秘めたある人物の決心

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U Soe Winのビデオに戻ろう。

ここはヤンゴンの一画。決して目立ったところはない。むしろ普段着の貧しさが漂う、どこにでもある住宅の一画である。U Soe Winが出てきて、タクシーでヤンゴン空港に向かった。この人物の慎重な性格が分かる。何度も何度もパスポートと航空券を確認する。旅行かばんを開けては中身をチェックする。

この一族は一人として王宮があったマンダレーの地に住むことを許可されなかった。それは英国によって、さらにはネウィンの軍事政権によってである。落魄の一族はいまひっそりと貧しく全員ヤンゴンに住んでいる。

だがスーチーの登場で空気が変わった。U Soe Winは潮目を読み人知れず決心をした。

その前に説明しておきたいことがある。

若きティボウ王(*当時27歳)と王妃スパヤラット(*当時三人目のプリンセスを身篭っていた)は王宮を突然英国軍に取り囲まれ逮捕された。王家の廃絶である。

大河イラワジ川は王宮近くで大きく湾曲し、マンダレー埠頭は王宮からさほど遠くない。
準備も不十分なまま馬車で護送された一行は、臣下や平民に送られてイラワジ河を下っていった。1885年11月25日のことであった。

陰謀家のスパヤラット王妃は、英国嫌いでフランスを頼みとしていた。ここでも英仏は領土争いをし、英国が先手を打った。英国がフランスを出し抜いたのである。

ラングーンで大型船に乗り換えベンガル湾を横断し、英国が経営するインド東海岸のマドラスに監禁された。イギリスの陰謀はさらに複雑だ。当時インドの大半を支配していたムガール帝国のシャー・ザファー王家も拘束され、反対にインドからビルマのラングーンに移送された。1886年のことである。

このムガール帝国のラスト・エンペラーも先述したシュエダゴンパゴダ南門近くの不思議な一画から歩いて5-10分のところに奇妙な霊廟がある。アヘン漬けにされた失意の王と王妃、プリンセスはこの霊廟に眠っている。ミャンマーを訪れるインド・パキスタン・バングラの国家元首は必ず、だが密かに祈祷を捧げる場所である。私も友人を何人かお連れした。

イギリスの巧妙で複雑な陰謀はマンダレーからインドへ、そしてインドからラングーンへと、二人のラスト・エンペラーを廃絶・移送することで、インドとビルマという巨万の富を産出した両国を軽々と手に入れた。これら二人のラスト・エンペラーは望郷の念叶わず、遠く異国の地でいまも眠っている。

大英帝国が歴史に残した大汚点が老獪にも忘れ去られようとしている。

イギリスの陰険さはそれで終わらない。ティボウとスパヤラット一行をマドラスで半年間ジックリと観察したあと、インド大陸西海岸の陸の孤島ラトナギリに再度移送した。
そこは陸からは一本の道も通っておらず、海路でしか訪れることは出来ない。

話は長くなったが、U Soe Winの決意は、このラトナギリをひとり訪ねることであった。




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・04:インド西海岸のラトナギリ(*Ratnagiri)

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マハラシュトラ州にありアラビア海に面する。北緯ほぼ17度。地図の上ではムンバイとゴアの中間に位置する。当時は小さな漁港があるだけで、船でしか近寄ることが出来なかった。だから陸の孤島と呼ばれた。

それを知り尽くした英国がティボウをここに幽閉したということは、王家の血の断絶を図ったことは明白である。それだけにU Soe Winの無念さは鬼気迫るものがある。そのUSoe Winが決断し、ひとりでラトナギリにやってきた。

主のいなくなった旧住居跡、大き目の二つの墳墓は、面倒みる人とてなく荒れるにまかされていた。墳墓の上にはバニアンツリーが繁り、漆喰も剥がれ、熱帯の太陽光線とモンスーン雨季で朽ちかけていた。

U Soe Winは職人をかり集め、足場を組ませ、バニアンを切り取り、石灰で墳墓を真っ白に塗装させた。化粧直しが一仕事終わると、U Soe Winは疎らに生えている黄色の小菊を集め、握りこぶし大の花束をつくり、墳墓の正面に供えた。石畳に正座すると両手を合わせ額の上で長い祈りを捧げた。それは100年の時空を越え、曽祖父との密約を語るようにも見えた。

ラトナギリは海上からの攻撃に備えて、イギリス軍が小ぢんまりとした要塞を築いた。
ティボウ王は夕方になると必ずこの高台を訪れ、真っ赤に染まったアラビア海に夕陽が沈むのをいつまでも眺めていたという。望郷の念に、哀れを誘う。彼の故郷マンダレーは西ではなく、実際には反対の東にある。ここを訪れたU Soe Winは滂沱の涙を流す。



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・05:外交官に匹敵する老獪で慎重なはかりごと

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ラトナギリから帰国したU Soe Winの動きは早かった。
当時の国防軍のトップ三名を動かした。三軍の最高司令官ミンアウンライン、副大統領ミエンスエ、下院議長トゥラ・シュエマンの三名である。

その翌年のことである。
ミャンマー上座部仏教界最上位の仏僧およびそのサンガ一団、国防軍最高幹部トップ三名、U Soe Minの息子・娘、そしてそれらの取巻き多数を引き連れて、U Soe Winは再びこのラトナギリにやってきた。

主なる墳墓はティボウ王だが、もうひとつは悲運な生涯を送ったプリンセスたちの棺が納められている。隣の建物の屋上には、インドの衛兵が銃を両手に抱え、異国の人たちが地上で行う儀式を、警護している。

そして二つの墳墓の周りにはレッドカーペットがビッシリ敷き詰めてある。マイクと音響スピーカーまで用意され、「ミャンマーの仕来りに従い、腰を降ろしてください」と司会者が大勢の参列者に呼びかける。サンガ一団の読経がはじまり全員が和す。

そして額を絨毯に三回擦り付ける三拝の儀式が行われた。
ミャンマー国軍の最高司令官、副大統領、下院議長の三名が、何も語らないが、形式的にはティボウ王に対し”臣下の礼”を取った瞬間である。ビデオは見逃さず、その瞬間を捉えている。

U Soe Winの顔が作り笑いのような、何とも言えない、満足に満ちた表情をつくる。
長い年月、自分の生涯を通して、誰にも話せない忍従を耐えてきたからこその老獪さである。
老獪なのはU Soe Winだけではない。2016年という特別に微妙な年に、ミャンマー国防軍の最高幹部が無言のお墨付きを与えたことになる。何一つ証拠は出てこないであろう。


ここでもう一度、ラトナギリの出席者を検証してみたい。
上座部仏教はインドで生まれた。いまではマイナーな宗教である。だが両国の仏教界にはいまでも緊密なパイプがある。U Soe Win個人の努力の陰には、多くの人が賛同し、協力の手を差し伸べてくれた。彼ひとりで出来る仕事ではない。

ミャンマーの上座部仏教界最高の長老が参加してくれた。カウンターパートナーであるインド側の、宗教界、教育界、歴史学界、考古学界、などなどの協力無しには実現できるとは思えない。ミャンマー国防軍の最高幹部が出席するとなれば、インド側のカウンターパートはそれなりに受け入れ態勢を整えるはずだ。

U Soe Winはそこまで慎重に老獪さを発揮したと思われる。
だがそれだけではない。



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・06:英国に劣らず老獪学を究めたミャンマー人

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イギリス人のグループがこの動画を製作するに至った過程で重要な人物が二人いる。
ひとりはインド人のSUDHA SHAHで、彼女はこの物語の原作『The King in Exile TheFall of the Royal Family of Burma』で、ビデオの要所要所で出演し解説してくれる。


私はヤンゴンの洋書店で数年前にこの原書海賊版コピーを6,000チャットで手に入れた。
その後書きによれば、この物語を調査し、出版するのに7年を要したとある。彼女はインド人である。

当然ながら、陰険な英国によって引き起こされたムガール帝国のラスト・エンペラーの運命にも強い関心を寄せているはずだ。ということは消え去られたビルマ最後の王家は、ビルマ人だけの問題ではない。

もうひとりがU Thant Myint-Uである。ご存知の方は多数おられようが、彼は名前の最初の2文字が暗示するとおり、ミャンマー人の知的英雄ともいえる、元国連事務総長ウ・タントの孫で、NYで生まれハーバード大学、ジョンズ・ホプキンズ大学、ケンブリッジ大学を卒業し、国連機関の重要な職を歴任し、ミャンマー政府最高レベルの政策にも関与してきた。

そしてミャンマーに関するベストセラーも何冊か出版し、歴史家でもある。ヤンゴンの英国時代からの歴史的な建築を査定し、ブルーのプレートを取り付けてきた“YangonHeritage Trust”の議長でもある。現時点でミャンマー最高の知識人とされる人物である。

話をさらに横道に逸らすが、国連第三代事務総長のウ・タントは、国際的にも名声高く、特に若き学生たちの誇りであった。だが独裁者ネウィンはジェラシーと強い反抗心を抱き、ウ・タントがNYで亡くなり、その遺骸がミンガラドン飛行場に戻ったとき、誰一人迎えを差し向けなかった。

昔ウ・タントの学生で今は高官を務める教え子が独り寂しくミンガラドンで迎えた。それを知ったネウィンは激怒し、即刻この高官を首にした。棺は一旦競馬場に安置され大勢の一般市民が最後の敬意と別れを告げるために集まった。当時の学生たちはネウィンの仕打ちに怒った。

棺を奪うとラングーン大学の構内に安置し、ビルマの最高の栄誉で知的英雄に対し厳かな儀式を執り行った。そこにネウィンが送り込んだ殺戮部隊が雪崩れ込み、学生たちに向け乱射した。そこは血の海と化した。この棺もいまはシュエダゴンパゴダ南門近くの不思議な一画の霊廟に眠っている。

いま何を言いたいかというと、知的なU Thant Myint-Uといえども、ミャンマーの軍部に対しては半分軍部に協力しながらも、誰にも吐露しない心の奥深くでは何を考えているか読み取れない。やはり老獪術を立派に身につけているはずだ。

同様の視点からスーチーが軍部とウラで取引をしたという皮相的な意見は耳にするが、ミャンマー学を真摯に学べばその老獪術が自然と見えてくるはずだ。

そのU Thant Myint-Uがこの動画企画を取り上げ、これまた要所要所でビデオに登場し、物語の進行役を務めてくれる。

以上挙げた二人がいなければ、このビデオ物語は成立しなかった。
そしてU Soe Winがラトナギリを訪れることは永遠に無かったであろう。

長くなってしまったが、忘れ去られたビルマの王家はまだ途中である。
勝手ながら続きは来週にしたい。

ただ今ヤンゴン時間10月29日午前10時30分である。
この2日間、同様の原稿を送付した。だがWiFi不調で途中で原稿が消えてしまい、原稿をゼロから作り直した。今回は三度目の正直である。

そういうことを経験しているうちに、口ひげのオジサンU Soe Winが魅力的な人物に思えてきた。彼の静かな粘り腰がなければ、大事は成し遂げられないことも学ばせてもらった。
ミャンマーの生徒たちにも、良い教訓となる。

明日金曜日と翌土曜日はダディンジュの休日である。
ミャンマーでは、恩師や両親など、目上の人へ感謝を捧げる祝日である。日本の敬老の日とはまったく趣旨が異なる。

アップロードはプロバイダー殿にお任せしてあります。


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