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<ミャンマーで今、何が?> Vol.91
2014.04.24

http://www.fis-net.co.jp/Myanmar


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■アウンサン将軍

・01:アウンサン将軍の履歴書

・02:アウンサン将軍の人気度

・03:アウンサン将軍を暗殺した真犯人は?

・04:蛇足ながら

・05:BBCの記者魂

・06:ミャンマー人の知恵

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肝心要のこの人を忘れていた。この国を語るには無くてはならない人物だ。

森の石松に嫌味を言われそうな気がする。この人物を語らずに、何がミャンマーだと。正月休みの静寂の中で石松の啖呵が聞こえてくる。広沢虎造の声色で。日本の近代化を語るに、勝海舟と西郷隆盛の会見が抜けてるようなものだと。

正月早々、反省の言葉で始まるが、お許し願いたい。

だが、この国にとってはあまりにも偉大な人物で、実像を把握するのに、どこからどう手をつけようか逡巡している。


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01:アウンサン将軍の履歴書

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先ずは全体像を把握するのに、急ぎ足で32歳の生涯の略歴をたどってみよう。ここでは彼の名称はすべて“将軍”とした。

1915年2月13日、マグウェー地区ナッモウク(Natmauk)生まれ。反植民地運動で知られた家柄で、将軍の祖父ボー・ミンヤウンは1886年ビルマ併合の反英闘争で有名。初等教育はナッモウクの僧院で、中等教育はイエナウンジャンの高校で受けた。

そしてラングーン大学に入学。1938年に英文学、近代史、政治学でB.A.(文学士)の学位を取得。すぐに学生運動のリーダーとして頭角を現し、雑誌を編集し、ラングーン大学だけでなく、全国学生組織の議長などに就任。後に独立後初代首相となるウー・ヌーと共に大学追放の危機も迎えるが、このあたりのストーリーは割愛。1938年10月に法学部を去り、国内政治に参画。有名なタキン党(英語ではマスター、日本語ではご主人様の意味。当時のイギリス人は自分たちが主人で、ビルマ人は召使と見下していた。それを逆手に自分たちがビルマのタキンだと主張したのがこの政党)の事務総長に就任。この時点で将軍は反英国、反帝国主義の信奉者だった。

1939年8月にはビルマ共産党の設立メンバーとなり初代事務局長に就任。1940年3月にはインドで開催されたインド国民会議派の集会にも出席、だが、政府はタキン党が英国に対する反乱を企てていると逮捕状を発令。将軍はビルマ脱出を図る。中国の支援を模索するために中国へ渡る。共産党との画策を図ったとか、国民党を頼ったとかの説があるので、ここは併記しておく。だが、廈門(アモイ)で日本軍に遭遇し説得され日本へ連れて行かれる。

将軍と日本との絡みはここからスタートし、三十人の志士、南機関、日本のビルマ占領、名目だけのビルマ独立、日本の敗戦、英国とのビルマ独立交渉と続くのだが、ここではすべて省略し、先きを急ごう。

将軍の心情としては、日本軍に裏切られ、英国にも裏切られ、どこの傀儡でもない真の独立へとそのエネルギーは集約されていく。だが、歴史は1947年7月19日(現在は国民休日で殉難者を悼む日となっている)の将軍暗殺で、彼の生涯は閉じる。国民からも軍人からもビルマ独立を勝ち取った国父あるいは国軍の創立者として慕われるが、享年若干32歳。
吉田松陰の29歳、坂本竜馬の32歳、に通ずるものがあり、権力を握った後の脂肪の塊が見えてこないだけに、いさぎよい生涯を感じると言ったら叱られるだろうか。だから、ミャンマーで反政府運動が起こるたびに、デモの先頭に必ず将軍の肖像写真を国民は掲げる。
1947年7月19日午前10時37分、ヤンゴン中心部の内閣府で閣議を開いていた将軍および主要閣僚など合計9名が闖入した制服着用の武装集団に銃で虐殺された。

毎年、この時間には往来のすべての車が停止し、クラクションを鳴らし、歩行者も立ち止まり黙祷を捧げるしきたりとなっている。

将軍の政敵であったウー・ソー(戦前、英植民地時代のビルマ首相)がこの暗殺の黒幕であることは明白で、即座に身柄を拘束され、裁判を経て、1948年5月8日インセイン刑務所内で絞首刑。慣例に従い、刑務所内の無名墓地に埋葬された。



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02:アウンサン将軍の人気度

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ここでアウンサン将軍を別の角度からおさらいして見よう。

来年は生誕100周年に当たり、将軍を巡る盛大な行事が予想される。なお、現日本大使公邸の近くは、同将軍が暗殺されるまで住み、現在“アウンサン将軍記念館”となっているので、生地にちなんでナッモウク通りと名付けられている。

ちなみに将軍の母親の名前はDaw Suuで、お馴染みアウンサンスーチーの名前は父親と祖母の名前の組み合わせである。ミャンマー人は尊敬と愛情を込めて彼のことを“ボージョー・アウンサン”と呼ぶ。ボージョーは将軍と言う意味である。観光名所の“ボージョー・マーケット”や“アウンサン・スタジアム”は彼の名前にちなんだものである。

どの地方都市に行っても、“ボージョー・アウンサン大通り”が市の中心にある。旧軍事政権はスーチー人気への拍車となることを恐れ、将軍の名前を歴史から抹殺しようとしたが、国民の将軍に対する熱情は断ち切りがたく、軍政の意向とは反比例して、その人気度はスーチー人気とシナジー効果を発揮して、今ではミャンマー人のDNAに組み込まれたものとなっている。



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03:アウンサン将軍の人気度

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実はこの謎はミャンマー人の識者、ジャーナリストの間で長いことくすぶっていた。ウー・ソーが殺し屋集団を虐殺現場に送り込んだのは事実だが、その裏に真犯人がいるというミステリーだ。

資料入手には、“アウンサン将軍記念館”を訪ねたり、インテリ友人の教えを受けているが、イギリス領事館やインド大使館の図書館で掘り出し物にぶつかるときもある。だが、今回痛感したのは、今はインターネットの時代であるということを再認識した。だが、東西南北研究所のパソコンは不安定で、ダウンロードのスピードも遅い。それに加えて真夏の停電という散発的な必殺テクニックに悩まされている。

快適な日本のネットをお楽しみの皆さん!!

“Who really killed Aung San?”というBBCが作成した秀逸なドキュメンタリーがYou Tubeで見られます。1997年7月19日の作品です。これは暗殺事件50周年を記念してのドキュメンタリー。興味をお持ちの方は是非覘いていただきたい。ワタシのつまらぬ説明など吹っ飛んでしまう優れモノです。これを鑑賞すれば、かなりのところまで霧が晴れる。



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04:蛇足ながら

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将軍は若干32歳とはいえ、すでにビルマの指導者となっていた。この将軍一人がビルマ全土を統一させる能力を備えていた。それを最も恐れていたのが大英帝国である。将軍はビルマ共産党とも手を組める人物であった。大英帝国はそれも恐れていた。そこで将軍さえ取り除けば、ビルマを支配するのは容易だと考えた。これが大英帝国真犯人説の根拠である。

ウー・ソーが何か謀反を企てていることは英国政府も最初から気付いていた。そして彼らの狙いがアウンサン将軍であることもだ。この事件が起こる前から、ウー・ソーの自宅は警察の監視下に置かれていた。実際にある警察官は、事件の一週間前から、近所の家に張り付き監視を続け、何か不審な動きがないか毎日報告することになっていたと語っている。しかし、監視はもっと前から行われていたようだ。‘60年代か‘70年代の殉難者の記念日に同様の証言をした警察官の記事が出ている。警察では企ての確証を報告したにもかかわらず、上からは逮捕礼状とか何らかの行動を取れとの指示はなかった。当時どうしてなのかと訝ったものだ。上からということは、当時は英国政府を意味する。これは大英帝国真犯人説の重要な状況証拠といえないだろうか。別の言い方をすると、英国はこの暗殺事件を防止できた筈だ。

もうひとつ別の証拠は、これは事件当時のメディアで伝えられたものだが、英国陸軍将校ビビアン大尉が事件直前に警察(英国の)に身柄を移された。大尉は武器弾薬補給部門に所属し、空冷式機関銃200丁をウー・ソーに支給していた。1947年6月24日に、ウー・ソーとそのグループは警察官の制服を着用し大尉の導きで第226ビルマ武器弾薬庫から難なく弾薬を受け取っていた。1947年7月10日には、同グループは大尉から二回目の弾薬支給を受けている。

そして暗殺二日後の1947年7月21日にはウー・ソー自宅近くの池が捜索され、170丁の空冷式機関銃と100丁の小型機関銃が水中の密封された箱から発見された。この武器弾薬支給で英国がこの暗殺事件に関与していることは明白である。

この数量は中途半端でなく6歩兵大隊(当時のビルマ大隊の半分に相当)を武装するに十分で、これはウー・ソーが購入したものではなく、この大尉が上層部に知られずに支給したものである。しかも動機としては、これによって大尉が個人的に得る利益は何もない。これだけの武器弾薬があればアウンサン将軍の暗殺を遂行するのみならず、その後、ウー・ソーが権力掌握の道具とすることで、英国はビルマを混乱と内戦に陥れることができる。

実際、ウー・ソーは1946年から武器を集め始め、ラングーン駐在のヤング英国司令官と緊密に連絡を取っていた。この司令官を通じて、ウー・ソーは大量のライフル、ピストル、弾薬を受け取っていた。同様に英国人デーン少佐からも武器弾薬を受け取っている。新聞によれば、将軍を倒したダムダム弾と呼ばれる銃弾には毒が塗ってあり、当時被弾したが致命傷ではなかった被害者がこの銃弾のために死亡している。ウー・ソーは事件前に二人の英国人少佐から不法にこれらの武器を手に入れていたのだ。だから、英国の事件関与は間違いないと信じるミャンマーの識者は多い。

なお、ウィンストン・チャーチルはアウンサン将軍を“裏切り者で反乱の首謀者”と呼んでいた。これはBBCのドキュメンタリーで確認いただきたい。



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05:BBCの記者魂

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BBCの凄いところは、国家機密情報が解除されるとすぐにドキュメンタリーの制作に掛かり、ジャーナリストとして公正な報道に徹しているところです。

将軍と日本軍とのかかわりは、この最後に挿入する予定でしたが、残りのページ数があまりにも少なく、次の機会にお届けしたい。

日本のお役所であれば、日本のイメージダウンに繋がるとして黙秘権を通しそうな資料もありますが、ここはBBCの記者魂を見習って公正な事実をお届けするように努めたいと思います。



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06:ミャンマー人の知恵

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4月8日のNLM紙第一面で、「情報省がBBC(英国放送協会)と提携して放送メディアを改革」となっている。メルマガ先週号で同じ情報省が活字部門のNLM紙を共同通信と改革を進めると伝えたが、、これなどもミャンマー政府のしたたかさを物語るもので、アウンサン将軍が最初は中国の支援を模索し、日本軍に切り替え、そして最後は英国と同盟を組むところなど、ミャンマー人のしたたかさは植民地時代に学習したのかもしれない。


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